掲載日:2024年5月31日
上智大学 法学部 教授
川瀬 剛志
1.経済安全保障の「陥穽」と自由貿易
本連載1回目の田所昌幸教授の寄稿は「『経済安全保障』の要請と陥穽」と題されているが、極めて機知と含蓄に富むタイトルだ。経済安全保障がつかみどころのない上にパワーワードであるがゆえに懸念される独り歩きの危うさを、端的に表す。
経済安全保障は本来多面的な概念であるにもかかわらず、安全保障上の懸念国に対する戦略物資や機微技術のアクセス制限や、特に半導体に見られるように国内生産回帰(reshoring)を見据えた補助金や税控除など、保護主義的な色彩を帯びる措置がクローズアップされ、無差別・多角・自由な貿易を標榜するWTO体制との緊張関係が指摘される。昨今の空気感は、米中対立、ウクライナ侵攻、ガザ情勢といった地政学的緊張の前に、安全保障の名の下にグローバルな自由貿易体制を軽視し、その侵食を等閑視することさえ現実的で「大人の対応」と見る。しかし、こうしたムードこそが、日本のような貿易に依存せざるを得ず、またパワーゲームに興じるにはあまりに非力なミドルパワーにとっては、経済安全保障の「陥穽」ではないだろうか。
昨今、経済安全保障の文脈でサプライチェーン強靱化の重要性が叫ばれるが、特に自由貿易体制はサプライチェーンの強靱性の前提条件である。つまり、WTOを中心としたグローバル自由貿易体制やCPTPPのような広域経済連携は柔軟で多角的なサプライチェーンを低コストで展開するための不可欠な制度的基盤であり、またサプライチェーン危機に対応する有効な調整メカニズムとして機能する。
2.サプライチェーンリスクと安全保障
トランプ政権発足以降のこの7年あまり、国際社会は多くのサプライチェーンの寸断あるいはその危機に直面してきた。これらの原因としては、米中対立やウクライナ戦争といった地政学的緊張、また2020年初頭以降の世界的な新型コロナウイルス流行による経済活動の停止が挙げられるが、少し古い例では、2011年の東日本大震災とタイの大規模洪水は自然災害がサプライチェーン寸断の原因となることを強く印象付けた。最近も台湾北東部の花蓮市で大規模地震が発生し、今回は台湾西海岸に集中する半導体生産拠点への損害は最小限に収まった1。しかし、これが例えばTSMCの生産設備が集中する台南や新竹で発生していれば、やはり半導体サプライチェーンの寸断とコロナ後のような深刻な半導体不足に帰結していた可能性がある。
近年こうしたサプライチェーンリスクを安全保障の観点から捉える議論が盛んになりつつある。先に挙げた昨今の危機で経験したサプライチェーンの寸断は、食料、エネルギー、医薬品、IT製品、自動車、家電のような不可欠物資、生活物資や耐久消費財の供給を妨げるばかりか、特に半導体の不足は民生品の供給を超えて、軍事・防衛といった伝統的な意味での安全保障に影響を及ぼす。例えば、ウクライナ戦争においては、半導体の調達とその性能が足元の兵器の生産及びその性能に影響することが広く知られた。更に先端半導体を要するAI開発の優劣が中長期的な軍事的優位を決定付けると言われ、2022年秋以降の米国による先端半導体及びその製造技術の対中輸出規制強化は、こうした中核的な安全保障上の関心が背景となっている2。また、サプライチェーンの一部が安全保障上の潜在的懸念国に展開される場合、特に半導体、量子コンピューティング、次世代通信網機器のような戦略物資であれば、機微技術漏洩のおそれもある。
更に、昨今の中国の経済的威圧やウクライナ戦争後の欧州におけるエネルギー価格の高騰は、輸出先市場や重要物資の供給源を過度に特定国に依存する場合、相互依存の武器化によって当該特定国に自国の主権的判断に介入される、ある種のエコノミック・ステートクラフトに対する危機意識を高めた。
それゆえ、日本のみならず、昨今多くの国々がサプライチェーンの強靱化に強い関心を寄せるようになっている。強靱化には様々な手法が考えられるが、そもそも国際的に展開されるサプライチェーンは自国のコントロールが及ばない事情で寸断するおそれがあることに鑑み、重要物資の国内生産能力を拡充することは一つの方策である。また、資源、食料などの不可欠物資の供給源、及び「チャイナ・プラス・ワン」のように生産拠点を多様化させることに加え、複雑なサプライチェーンの可視化や、サプライチェーン危機の早期警報制度の導入も強靭化の方策となりうる。
このような取り組みの具体例として、例えば米国では、バイデン政権が発足後間もない2021年2月に大統領令を発令し、関係官庁に重要物資のサプライチェーンが有する脆弱性とその改善策について調査と提言を指示した。報告書は、特に重要な半導体、大容量蓄電池、医薬品、重要鉱物の4分野については同年6月に3、またエネルギーや食料・農産物など6分野については翌2022年2月に公表されている4。これらは共通して、サプライチェーンの多様化、関係物資の国内生産及び研究・開発体制の拡充、関係分野における公共投資や政府調達の増額、サプライチェーン強靱化のための国際協力などを提案している。
3.ルールの支配による自由貿易が推進するフレンドショアリング
この文脈において、米国は昨今フレンドショアリング(friend-shoring)の構築を推進してきた。イエレン財務長官によれば、これはグローバル経済の運営について規範や価値観を共有する国々の間で関係を強化し、重要物資の供給を確保することを意味する5。つまり、フレンドショアリングとは、これまでの経済効率重視のオフショアリング及びアウトソーシングから脱し、同盟国・友好国間で地政学的リスクの少ないサプライチェーンを展開し、その安定的な運用のための協力体制を構築することである。
アメリカの具体策も、リショアリングに加え、フレンドショアリングを推進するものとなっている。例えば半導体に関するCHIPS科学法でも、いわゆるガードレール条項が実施規則に盛り込まれており、同法による財政支援の対象となる半導体企業に懸念国(中国)への投資を制限する条件が付されている。また、インフレ抑制法(IRA)のEV車税額控除でも、対象車種の条件として、使用される重要鉱物が米国内あるいは米国とFTAまたはFTA相当の重要鉱物協定を締結した国々で生産・精製されることが条件とされている。
こうした強靱なフレンドショアリングを同盟国・友好国、特に日本の場合、米国を巻き込んでインド太平洋において構築するためには、伝統的な通商協定の存在が重要になる。
グローバルサプライチェーンは、簡単に言えば、ある製品の全生産工程の一部をアウトソーシング及びオフショアリングすることにより形成される。この時、グローバルサプライチェーンにおいては、最終製品はもちろん、部品・半製品といった物品のほか、海外拠点の設立のための投資、海外進出に付随して必要となるサービス、また知的財産権保護の対象となる技術、ノウハウ、商標等が越境移転されるが、ボールドウィンはこれを「貿易・投資・サービス・知的財産権結合体(trade-investment-services-intellectual property nexus)」と称する6。更に拠点間では製造、販売、調達、技術開発、会計などあらゆる企業活動やIoTから派生するビッグデータが共有され、従業員や経営陣の出張・赴任に伴う人の移動も発生する。
通商協定は、こうした製品や生産要素の越境移動を自由化し、サプライチェーンの展開・運用のコストを下げる。例えば完成品貿易では製品の越境移動は1回だが、グローバルサプライチェーンにおいてはある製品の完成までに部品・半製品が幾度となく拠点間を越境移動する。その都度関税や通関手続のコストが発生し、これらが累積すれば、その負担は無視できないが、通商協定は関税を削減・撤廃し、通関手続を簡素化することで、これを防ぐ。更には、サービス貿易の自由化、投資の自由化・保護、拠点間のデータや人の移動の自由化も実現できる。
また通商協定は、こうした生産要素移動の自由化に加えて、関税や国境における規制及び昨今“behind the border”と言われる国内規制について無差別待遇や透明性を確保し、あるいは直接投資によって設立された海外拠点の操業を保障する。このことによって、グローバルサプライチェーン内の規制環境のリスク低減と予見可能性を確保することも、通商協定の重要な役割になる7。
CPTPPはこうしたサプライチェーン実現を広域において支援する通商協定の典型である。関税は長期的にほぼ全廃され、貿易円滑化ルールが迅速で低コストの通関を実現する。サービス・投資はネガリスト方式の約束を採用することで原則自由化され、政府調達、国有企業、汚職に関する規律は内外企業間の公平な競争条件を確保する。データやビジネスパーソンの越境移動の自由も実現している。このようにCPTPP各章のルールは、コスト低減かリスク低減・予見可能性向上の少なくともいずれかにおいて、グローバルサプライチェーン構築に貢献する。
他方、WTOはCPTPP のように100%近い関税削減は実現できず、サービス自由化でもポジリスト方式を採用しており、自由化はより限定的である。直接投資の自由化・保護及びデジタル貿易に関する規律も持たない。また同じくインド太平洋のFTAでも、RCEPは関税削減・撤廃の水準やルールの野心が比較的低い。これらに比して、CPTPPはサプライチェーン構築への貢献が遙かに大きいが、米国の離脱により、現時点ではインド太平洋におけるフレンドショアリング構築の基礎として完全に機能することは期待できない。
4.経済安全保障志向の新たな通商枠組みとその限界
米国は目下国内の政治的事情から市場アクセス自由化を含む通商協定を締結できず、代わって経済安全保障の視点からサプライチェーン強靱化に焦点を当てた通商枠組みの交渉に着手している。複数国間の枠組みとしては、IPEFをはじめ、南北アメリカをカバーする経済的繁栄のための米州パートナーシップ(APEP)、日米豪印(QUAD)、二国間では米EU貿易技術評議会(TTC)、日米の経済政策協議委員会(「経済版2+2」)や商務・産業パートナーシップ(JUCIP)、またセクター別では、重要鉱物安全保障パートナーシップ(MSP)や半導体に関するチップ4などの枠組みが立ち上がっている。
このうち代表的なIPEFは、貿易、サプライチェーン、クリーン経済、及び公正な経済の4つの柱で構成されており、柱2のサプライチェーンについては今年2月にサプライチェーンの強靱性に関する繁栄のためのインド太平洋経済枠組み協定(IPEFサプライチェーン協定)が発効した。特にサプライチェーンとの関係で、米国のタイ通商代表は柱1の貿易は、域内でのサプライチェーン形成を容易にする政策の採用を各締約国に促し、またサプライチェーン展開の柔軟性を確保すると説明する一方、柱2は、サプライチェーンの透明性と安定的な運用に焦点を当て、サプライチェーンの混乱や寸断に備える規律であると説明する8。これは要するに、柱2が既存のサプライチェーンの安定性を確保する協定であるとすれば、柱1のような通商協定が貿易障壁の除去によって新たなサプライチェーンの構築や既存サプライチェーンの再編のコスト削減と予見可能性を高める取決めを目指す枠組みであることを示す。つまり、IPEF域内でのフレンドショアリングは、双方の柱が相互補完的に機能することによって実現できる。しかし、昨年11月のサンフランシスコ会合では、柱1について何らの合意を得ることはできなかった。
加えて、IPEFをはじめ、サプライチェーン指向の新たな通商枠組みは、伝統的な通商協定のような物品・サービスの市場アクセス自由化や投資保護・自由化の約束、そして非関税障壁撤廃の拘束力のあるルールを備えていないため、CPTPP のようにサプライチェーン構築のコスト削減や予見可能性を十分に実現できない。よって、IPEFなど新しい通商枠組みだけでは、インド太平洋におけるフレンドショアリングの構築を促進するには十分ではない。バイデン政権は、市場アクセスを含む通商政策は同政権の国際経済政策の中心ではなく、フレンドショアリングの推進を重視すると明言しているが9、このような方針には疑問を抱かざるを得ない。
5.自由貿易が支えるサプライチェーンの強靱性
また、伝統的な通商協定によって実現される自由貿易は、グローバルサプライチェーンに外生的なショックから回復する強靱性をもたらすことが、近年の経済的威圧の事例によって実証されている。2020年に当時のオーストラリア、モリソン首相が新型コロナウイルスの発生起源について独立調査を中国に要求したところ、中国は大麦、ワインへのダンピング防止税・相殺関税及び牛肉や木材への衛生検疫理由の輸入制限等の通商措置を課した。しかしオーストラリアはWTOやCPTPPが実現する開放的な自由貿易体制の下で代替的輸出市場を見つけ、他方でWTO紛争解決手続を利用することで効果的にこの威圧措置を無力化し、結局昨秋以降の中豪関係の改善とともに措置は順次撤廃されている10。
昨年5月のG7広島サミットは「経済的威圧に対する調整プラットフォーム」を立ち上げ11、10月の大阪・堺貿易大臣声明もG7の協力による経済的威圧による損害緩和を謳っている12。これもまた、自由貿易が確保されていれば、経済的威圧によって失った市場や供給源をG7諸国が相互に融通することによって実現できる。WTOのWorld Trade Report 2023も、経済的威圧、更にはパンデミックなど近年の外生的なショックによるサプライチェーン危機からの回復に自由貿易体制が貢献していることを、実証研究を援用して論じている13。
6.「安全保障の赤字国」としての政策オプション
このように市場アクセス約束を伴う伝統的な通商協定は、結局のところ強靱なサプライチェーン構築の基盤として欠かせないものであり、自由貿易は経済安全保障と矛盾しない。よって、我々の政策的オプションの基本は依然として自由貿易体制の強化・拡大に変わりはない。特にインド太平洋でのフレンドショアリングを推進せんとすれば、今後もCPTPPの拡大と今後行われる発効5年後の一般見直しを通じたルールのアップデートが重要となる。またIPEFも、それだけでは十分ではないにせよ、CPTPPと相互補完的に地域のサプライチェーン強靱化を実現する枠組みであるから、柱1の早期合意とIPEFサプライチェーン協定の実施確保が不可欠となる。
また、従来メガFTAは多国間自由貿易体制への「飛び石(steppingstone)」と言われてきた。サプライチェーン展開の自由度を上げるためには、CPTPPをインド太平洋を超えた他のメガFTA、例えば新規加入した英国を足がかりにしてEUと、また加入申請中のウルグアイを媒介してメルコスールと連結する可能性を模索するのも一案であろう。
何より、多様なサプライチェーンの自由な構築の基盤は、やはりグローバルなWTO体制である。第13回閣僚会議の積み残し課題を早期に解決して求心力を高め、更に現在機能停止に陥っている紛争解決手続の早期正常化を図ることによってルールの履行を確保することは急務である。特に、昨今安全保障の名の下に保護主義的な措置が導入され、ルールの支配による自由貿易体制が侵食されている。その意味では、GATT21条ほかの安全保障条項の濫用防止は重要であり、偽装された保護主義を排除しつつ安全保障を十分に確保する、つまり、“small yard, high fence”に適う運用を模索しなければならない。
船橋洋一によれば、安全保障には黒字国と赤字国が存在する。太平洋・大西洋というふたつの大洋に面し、国力の劣る友好国(カナダ、メキシコ)に挟まれ、資源、食料から先端技術に至るまで自給できる米国は典型的な黒字国だが、周囲を安全保障上の脅威となる中・露・北朝鮮に囲まれた不安定な東アジアの地政学的環境に身を置き、資源や食料の多くを輸入に頼る日本は逆に赤字国の典型とされる14。日本は食料・エネルギーを海外に依存していることからロシア制裁さえ徹底できず、また歴史的円安で生活物価に悪影響が出ているにもかかわらずまだ円高による輸出産業への影響を慮るような、貿易依存度の高い国である。過去にはレアアース、そして現在は水産物と、最大の貿易相手国である中国の経済的威圧にも直面している。相互依存の武器化によって、壁際、あるいは崖っぷちに追い詰められない、退路を柔軟に模索できる自由貿易の制度枠組みの維持も、また我が国にとっては重要な経済安全保障の一側面である。
執筆者プロフィール
川瀬 剛志(かわせ つよし)
上智大学 法学部 教授/(独)経済産業研究所 ファカルティフェロー
慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程中退。1994年神戸商科大学(現・兵庫県立大学)商経学部助手、1996年同講師、1999年同助教授、2001年経済産業省通商政策局通商機構部参事官補佐、2003年(独)経済産業研究所研究員、2004年大阪大学大学院法学研究科助教授、2007年同准教授を経て、2007年10月より現職。この間産業構造審議会通商分科会特殊貿易措置小委員長(2017年〜2023年)、ジョージタウン大学法科大学院客員研究員(1999年〜2001年)、ハーバード大学ウェザーヘッド国際問題研究所客員研究員(2023年〜2024年)等を歴任。専門は国際経済法。著書(全て共編著)に『WTO紛争解決手続における履行制度』(三省堂、2005年)、The Future of the Multilateral Trading System: East Asian Perspectives(CMP Publishing, 2009)、『地球温暖化対策と国際貿易』(東京大学出版会、2012年)など。
上智大学 法学部 教授
川瀬 剛志
1.経済安全保障の「陥穽」と自由貿易
本連載1回目の田所昌幸教授の寄稿は「『経済安全保障』の要請と陥穽」と題されているが、極めて機知と含蓄に富むタイトルだ。経済安全保障がつかみどころのない上にパワーワードであるがゆえに懸念される独り歩きの危うさを、端的に表す。
経済安全保障は本来多面的な概念であるにもかかわらず、安全保障上の懸念国に対する戦略物資や機微技術のアクセス制限や、特に半導体に見られるように国内生産回帰(reshoring)を見据えた補助金や税控除など、保護主義的な色彩を帯びる措置がクローズアップされ、無差別・多角・自由な貿易を標榜するWTO体制との緊張関係が指摘される。昨今の空気感は、米中対立、ウクライナ侵攻、ガザ情勢といった地政学的緊張の前に、安全保障の名の下にグローバルな自由貿易体制を軽視し、その侵食を等閑視することさえ現実的で「大人の対応」と見る。しかし、こうしたムードこそが、日本のような貿易に依存せざるを得ず、またパワーゲームに興じるにはあまりに非力なミドルパワーにとっては、経済安全保障の「陥穽」ではないだろうか。
昨今、経済安全保障の文脈でサプライチェーン強靱化の重要性が叫ばれるが、特に自由貿易体制はサプライチェーンの強靱性の前提条件である。つまり、WTOを中心としたグローバル自由貿易体制やCPTPPのような広域経済連携は柔軟で多角的なサプライチェーンを低コストで展開するための不可欠な制度的基盤であり、またサプライチェーン危機に対応する有効な調整メカニズムとして機能する。
2.サプライチェーンリスクと安全保障
トランプ政権発足以降のこの7年あまり、国際社会は多くのサプライチェーンの寸断あるいはその危機に直面してきた。これらの原因としては、米中対立やウクライナ戦争といった地政学的緊張、また2020年初頭以降の世界的な新型コロナウイルス流行による経済活動の停止が挙げられるが、少し古い例では、2011年の東日本大震災とタイの大規模洪水は自然災害がサプライチェーン寸断の原因となることを強く印象付けた。最近も台湾北東部の花蓮市で大規模地震が発生し、今回は台湾西海岸に集中する半導体生産拠点への損害は最小限に収まった1。しかし、これが例えばTSMCの生産設備が集中する台南や新竹で発生していれば、やはり半導体サプライチェーンの寸断とコロナ後のような深刻な半導体不足に帰結していた可能性がある。
近年こうしたサプライチェーンリスクを安全保障の観点から捉える議論が盛んになりつつある。先に挙げた昨今の危機で経験したサプライチェーンの寸断は、食料、エネルギー、医薬品、IT製品、自動車、家電のような不可欠物資、生活物資や耐久消費財の供給を妨げるばかりか、特に半導体の不足は民生品の供給を超えて、軍事・防衛といった伝統的な意味での安全保障に影響を及ぼす。例えば、ウクライナ戦争においては、半導体の調達とその性能が足元の兵器の生産及びその性能に影響することが広く知られた。更に先端半導体を要するAI開発の優劣が中長期的な軍事的優位を決定付けると言われ、2022年秋以降の米国による先端半導体及びその製造技術の対中輸出規制強化は、こうした中核的な安全保障上の関心が背景となっている2。また、サプライチェーンの一部が安全保障上の潜在的懸念国に展開される場合、特に半導体、量子コンピューティング、次世代通信網機器のような戦略物資であれば、機微技術漏洩のおそれもある。
更に、昨今の中国の経済的威圧やウクライナ戦争後の欧州におけるエネルギー価格の高騰は、輸出先市場や重要物資の供給源を過度に特定国に依存する場合、相互依存の武器化によって当該特定国に自国の主権的判断に介入される、ある種のエコノミック・ステートクラフトに対する危機意識を高めた。
それゆえ、日本のみならず、昨今多くの国々がサプライチェーンの強靱化に強い関心を寄せるようになっている。強靱化には様々な手法が考えられるが、そもそも国際的に展開されるサプライチェーンは自国のコントロールが及ばない事情で寸断するおそれがあることに鑑み、重要物資の国内生産能力を拡充することは一つの方策である。また、資源、食料などの不可欠物資の供給源、及び「チャイナ・プラス・ワン」のように生産拠点を多様化させることに加え、複雑なサプライチェーンの可視化や、サプライチェーン危機の早期警報制度の導入も強靭化の方策となりうる。
このような取り組みの具体例として、例えば米国では、バイデン政権が発足後間もない2021年2月に大統領令を発令し、関係官庁に重要物資のサプライチェーンが有する脆弱性とその改善策について調査と提言を指示した。報告書は、特に重要な半導体、大容量蓄電池、医薬品、重要鉱物の4分野については同年6月に3、またエネルギーや食料・農産物など6分野については翌2022年2月に公表されている4。これらは共通して、サプライチェーンの多様化、関係物資の国内生産及び研究・開発体制の拡充、関係分野における公共投資や政府調達の増額、サプライチェーン強靱化のための国際協力などを提案している。
3.ルールの支配による自由貿易が推進するフレンドショアリング
この文脈において、米国は昨今フレンドショアリング(friend-shoring)の構築を推進してきた。イエレン財務長官によれば、これはグローバル経済の運営について規範や価値観を共有する国々の間で関係を強化し、重要物資の供給を確保することを意味する5。つまり、フレンドショアリングとは、これまでの経済効率重視のオフショアリング及びアウトソーシングから脱し、同盟国・友好国間で地政学的リスクの少ないサプライチェーンを展開し、その安定的な運用のための協力体制を構築することである。
アメリカの具体策も、リショアリングに加え、フレンドショアリングを推進するものとなっている。例えば半導体に関するCHIPS科学法でも、いわゆるガードレール条項が実施規則に盛り込まれており、同法による財政支援の対象となる半導体企業に懸念国(中国)への投資を制限する条件が付されている。また、インフレ抑制法(IRA)のEV車税額控除でも、対象車種の条件として、使用される重要鉱物が米国内あるいは米国とFTAまたはFTA相当の重要鉱物協定を締結した国々で生産・精製されることが条件とされている。
こうした強靱なフレンドショアリングを同盟国・友好国、特に日本の場合、米国を巻き込んでインド太平洋において構築するためには、伝統的な通商協定の存在が重要になる。
グローバルサプライチェーンは、簡単に言えば、ある製品の全生産工程の一部をアウトソーシング及びオフショアリングすることにより形成される。この時、グローバルサプライチェーンにおいては、最終製品はもちろん、部品・半製品といった物品のほか、海外拠点の設立のための投資、海外進出に付随して必要となるサービス、また知的財産権保護の対象となる技術、ノウハウ、商標等が越境移転されるが、ボールドウィンはこれを「貿易・投資・サービス・知的財産権結合体(trade-investment-services-intellectual property nexus)」と称する6。更に拠点間では製造、販売、調達、技術開発、会計などあらゆる企業活動やIoTから派生するビッグデータが共有され、従業員や経営陣の出張・赴任に伴う人の移動も発生する。
通商協定は、こうした製品や生産要素の越境移動を自由化し、サプライチェーンの展開・運用のコストを下げる。例えば完成品貿易では製品の越境移動は1回だが、グローバルサプライチェーンにおいてはある製品の完成までに部品・半製品が幾度となく拠点間を越境移動する。その都度関税や通関手続のコストが発生し、これらが累積すれば、その負担は無視できないが、通商協定は関税を削減・撤廃し、通関手続を簡素化することで、これを防ぐ。更には、サービス貿易の自由化、投資の自由化・保護、拠点間のデータや人の移動の自由化も実現できる。
また通商協定は、こうした生産要素移動の自由化に加えて、関税や国境における規制及び昨今“behind the border”と言われる国内規制について無差別待遇や透明性を確保し、あるいは直接投資によって設立された海外拠点の操業を保障する。このことによって、グローバルサプライチェーン内の規制環境のリスク低減と予見可能性を確保することも、通商協定の重要な役割になる7。
CPTPPはこうしたサプライチェーン実現を広域において支援する通商協定の典型である。関税は長期的にほぼ全廃され、貿易円滑化ルールが迅速で低コストの通関を実現する。サービス・投資はネガリスト方式の約束を採用することで原則自由化され、政府調達、国有企業、汚職に関する規律は内外企業間の公平な競争条件を確保する。データやビジネスパーソンの越境移動の自由も実現している。このようにCPTPP各章のルールは、コスト低減かリスク低減・予見可能性向上の少なくともいずれかにおいて、グローバルサプライチェーン構築に貢献する。
他方、WTOはCPTPP のように100%近い関税削減は実現できず、サービス自由化でもポジリスト方式を採用しており、自由化はより限定的である。直接投資の自由化・保護及びデジタル貿易に関する規律も持たない。また同じくインド太平洋のFTAでも、RCEPは関税削減・撤廃の水準やルールの野心が比較的低い。これらに比して、CPTPPはサプライチェーン構築への貢献が遙かに大きいが、米国の離脱により、現時点ではインド太平洋におけるフレンドショアリング構築の基礎として完全に機能することは期待できない。
4.経済安全保障志向の新たな通商枠組みとその限界
米国は目下国内の政治的事情から市場アクセス自由化を含む通商協定を締結できず、代わって経済安全保障の視点からサプライチェーン強靱化に焦点を当てた通商枠組みの交渉に着手している。複数国間の枠組みとしては、IPEFをはじめ、南北アメリカをカバーする経済的繁栄のための米州パートナーシップ(APEP)、日米豪印(QUAD)、二国間では米EU貿易技術評議会(TTC)、日米の経済政策協議委員会(「経済版2+2」)や商務・産業パートナーシップ(JUCIP)、またセクター別では、重要鉱物安全保障パートナーシップ(MSP)や半導体に関するチップ4などの枠組みが立ち上がっている。
このうち代表的なIPEFは、貿易、サプライチェーン、クリーン経済、及び公正な経済の4つの柱で構成されており、柱2のサプライチェーンについては今年2月にサプライチェーンの強靱性に関する繁栄のためのインド太平洋経済枠組み協定(IPEFサプライチェーン協定)が発効した。特にサプライチェーンとの関係で、米国のタイ通商代表は柱1の貿易は、域内でのサプライチェーン形成を容易にする政策の採用を各締約国に促し、またサプライチェーン展開の柔軟性を確保すると説明する一方、柱2は、サプライチェーンの透明性と安定的な運用に焦点を当て、サプライチェーンの混乱や寸断に備える規律であると説明する8。これは要するに、柱2が既存のサプライチェーンの安定性を確保する協定であるとすれば、柱1のような通商協定が貿易障壁の除去によって新たなサプライチェーンの構築や既存サプライチェーンの再編のコスト削減と予見可能性を高める取決めを目指す枠組みであることを示す。つまり、IPEF域内でのフレンドショアリングは、双方の柱が相互補完的に機能することによって実現できる。しかし、昨年11月のサンフランシスコ会合では、柱1について何らの合意を得ることはできなかった。
加えて、IPEFをはじめ、サプライチェーン指向の新たな通商枠組みは、伝統的な通商協定のような物品・サービスの市場アクセス自由化や投資保護・自由化の約束、そして非関税障壁撤廃の拘束力のあるルールを備えていないため、CPTPP のようにサプライチェーン構築のコスト削減や予見可能性を十分に実現できない。よって、IPEFなど新しい通商枠組みだけでは、インド太平洋におけるフレンドショアリングの構築を促進するには十分ではない。バイデン政権は、市場アクセスを含む通商政策は同政権の国際経済政策の中心ではなく、フレンドショアリングの推進を重視すると明言しているが9、このような方針には疑問を抱かざるを得ない。
5.自由貿易が支えるサプライチェーンの強靱性
また、伝統的な通商協定によって実現される自由貿易は、グローバルサプライチェーンに外生的なショックから回復する強靱性をもたらすことが、近年の経済的威圧の事例によって実証されている。2020年に当時のオーストラリア、モリソン首相が新型コロナウイルスの発生起源について独立調査を中国に要求したところ、中国は大麦、ワインへのダンピング防止税・相殺関税及び牛肉や木材への衛生検疫理由の輸入制限等の通商措置を課した。しかしオーストラリアはWTOやCPTPPが実現する開放的な自由貿易体制の下で代替的輸出市場を見つけ、他方でWTO紛争解決手続を利用することで効果的にこの威圧措置を無力化し、結局昨秋以降の中豪関係の改善とともに措置は順次撤廃されている10。
昨年5月のG7広島サミットは「経済的威圧に対する調整プラットフォーム」を立ち上げ11、10月の大阪・堺貿易大臣声明もG7の協力による経済的威圧による損害緩和を謳っている12。これもまた、自由貿易が確保されていれば、経済的威圧によって失った市場や供給源をG7諸国が相互に融通することによって実現できる。WTOのWorld Trade Report 2023も、経済的威圧、更にはパンデミックなど近年の外生的なショックによるサプライチェーン危機からの回復に自由貿易体制が貢献していることを、実証研究を援用して論じている13。
6.「安全保障の赤字国」としての政策オプション
このように市場アクセス約束を伴う伝統的な通商協定は、結局のところ強靱なサプライチェーン構築の基盤として欠かせないものであり、自由貿易は経済安全保障と矛盾しない。よって、我々の政策的オプションの基本は依然として自由貿易体制の強化・拡大に変わりはない。特にインド太平洋でのフレンドショアリングを推進せんとすれば、今後もCPTPPの拡大と今後行われる発効5年後の一般見直しを通じたルールのアップデートが重要となる。またIPEFも、それだけでは十分ではないにせよ、CPTPPと相互補完的に地域のサプライチェーン強靱化を実現する枠組みであるから、柱1の早期合意とIPEFサプライチェーン協定の実施確保が不可欠となる。
また、従来メガFTAは多国間自由貿易体制への「飛び石(steppingstone)」と言われてきた。サプライチェーン展開の自由度を上げるためには、CPTPPをインド太平洋を超えた他のメガFTA、例えば新規加入した英国を足がかりにしてEUと、また加入申請中のウルグアイを媒介してメルコスールと連結する可能性を模索するのも一案であろう。
何より、多様なサプライチェーンの自由な構築の基盤は、やはりグローバルなWTO体制である。第13回閣僚会議の積み残し課題を早期に解決して求心力を高め、更に現在機能停止に陥っている紛争解決手続の早期正常化を図ることによってルールの履行を確保することは急務である。特に、昨今安全保障の名の下に保護主義的な措置が導入され、ルールの支配による自由貿易体制が侵食されている。その意味では、GATT21条ほかの安全保障条項の濫用防止は重要であり、偽装された保護主義を排除しつつ安全保障を十分に確保する、つまり、“small yard, high fence”に適う運用を模索しなければならない。
船橋洋一によれば、安全保障には黒字国と赤字国が存在する。太平洋・大西洋というふたつの大洋に面し、国力の劣る友好国(カナダ、メキシコ)に挟まれ、資源、食料から先端技術に至るまで自給できる米国は典型的な黒字国だが、周囲を安全保障上の脅威となる中・露・北朝鮮に囲まれた不安定な東アジアの地政学的環境に身を置き、資源や食料の多くを輸入に頼る日本は逆に赤字国の典型とされる14。日本は食料・エネルギーを海外に依存していることからロシア制裁さえ徹底できず、また歴史的円安で生活物価に悪影響が出ているにもかかわらずまだ円高による輸出産業への影響を慮るような、貿易依存度の高い国である。過去にはレアアース、そして現在は水産物と、最大の貿易相手国である中国の経済的威圧にも直面している。相互依存の武器化によって、壁際、あるいは崖っぷちに追い詰められない、退路を柔軟に模索できる自由貿易の制度枠組みの維持も、また我が国にとっては重要な経済安全保障の一側面である。
- *本稿は(独)経済産業研究所(RIETI)・経済政策研究センター(CEPR)共催シンポジウム「世界貿易秩序と経済安全保障の将来」(2024 年4 月16 日、イイノホール)における筆者報告原稿に加筆・修正を行ったものである
- 1「台湾地震、半導体供給網にリスク TSMCは一部稼働停止」日本経済新聞電子版2024年4月3日。
- 2 Sujai Shivakumar and Charles Wessner, “Semiconductors and National Defense: What Are the Stakes?” CSIS, June 8, 2022, https://www.csis.org/analysis/semiconductors-and-national-defense-what-are-stakes.
- 3 White House, Building Resilient Supply Chains, Revitalizing American Manufacturing, and Fostering Broad-Based Growth: 100-Day Reviews under Executive Order 14017(2021), https://www.whitehouse.gov/wp-content/uploads/2021/06/100-day-supply-chain-review-report.pdf.
- 4 引用が大部に及ぶため総括報告書のみ紹介する。White House, Executive Order on America’s Supply Chains: A Year of Action and Progress(2022), https://www.whitehouse.gov/wp-content/uploads/2022/02/Capstone-Report-Biden.pdf.
- 5 “Transcript: US Treasury Secretary Janet Yellen on the Next Steps for Russia Sanctions and ‘Friend-shoring’ Supply Chains,” Atlantic Council, Apr. 13, 2022, https://www.atlanticcouncil.org/news/transcripts/transcript-us-treasury-secretary-janet-yellen-on-the-next-steps-for-russia-sanctions-and-friend-shoring-supply-chains/.
- 6 ボールドウィンの所論については、リチャード ボールドウィン(遠藤真美 訳)『世界経済 大いなる収斂: ITがもたらす新次元のグローバリゼーション』(日本経済新聞出版、2018)を参照。
- 7 通商協定とグローバルサプライチェーンの関係について、Shamel Azmeh, "International Trade Policies and Global Value Chains,” in Stefano Ponte et al. (eds), Handbook on Global Value Chains, pp.521–536 (Edward Elgar, 2019)を参照。
- 8 “Tai: IPEF Trade Negotiators Are like ‘Tax-Code Writers’,” Inside U.S. Trade, Oct. 20, 2023.
- 9 “The Future of International Economic Policy with Deputy National Security Advisor Mike Pyle,” Carnegie Endowment for International Peace, June 29, 2023, https://carnegieendowment.org/2023/06/29/future-of-international-economic-policy-with-deputy-national-security-advisor-mike-pyle-event-8122.
- 10 Milton Ezrati, “Beijing Learns That What Goes Around Comes Around,” Forbes, Dec. 4, 2023, https://www.forbes.com/sites/miltonezrati/2023/12/04/beijing-learns-that-what-goes-around-comes-around/?sh=5ca011a55bb9.
- 11 「経済的強靱性及び経済安全保障に関するG7首脳声明」外務省(2023年5月20日)
(https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100506768.pdf)。 - 12 「G7貿易大臣声明」外務省(2023年10月29日)
(https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100573174.pdf)。 - 13 WTO, World Trade Report 2023: Re-globalization for a Secure, Inclusive and Sustainable Future, pp.51–53 (WTO, 2023), https://www.wto.org/english/res_e/booksp_e/wtr23_e/wtr23_e.pdf.
- 14 船橋洋一『国民安全保障国家論-世界は自ら助くる者を助く』109–110頁(文藝春秋、2022)。
執筆者プロフィール
川瀬 剛志(かわせ つよし)
上智大学 法学部 教授/(独)経済産業研究所 ファカルティフェロー
慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程中退。1994年神戸商科大学(現・兵庫県立大学)商経学部助手、1996年同講師、1999年同助教授、2001年経済産業省通商政策局通商機構部参事官補佐、2003年(独)経済産業研究所研究員、2004年大阪大学大学院法学研究科助教授、2007年同准教授を経て、2007年10月より現職。この間産業構造審議会通商分科会特殊貿易措置小委員長(2017年〜2023年)、ジョージタウン大学法科大学院客員研究員(1999年〜2001年)、ハーバード大学ウェザーヘッド国際問題研究所客員研究員(2023年〜2024年)等を歴任。専門は国際経済法。著書(全て共編著)に『WTO紛争解決手続における履行制度』(三省堂、2005年)、The Future of the Multilateral Trading System: East Asian Perspectives(CMP Publishing, 2009)、『地球温暖化対策と国際貿易』(東京大学出版会、2012年)など。