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インドは対中不信を乗り越えられるのか

「世界各地域から見た現下の国際情勢」

インドは対中不信を乗り越えられるのか
~2024年10月国境撤兵合意とその後~

2025年4月16日

中京大学 教授
溜 和敏


はじめに

 2024年10月23日、インドのナレーンドラ・モーディー首相と中国の習近平国家主席は、ロシア・カザンで開催されたBRICSサミットの場で首脳会談を行った。2019年10月にインド・チェンナイで行われて以来、5年ぶりとなったこの会談で、両首脳は関係改善への意欲を示した1

 両者の会談が可能となったのは、2020年6月にインド北部ラダック地方ガルワン渓谷において勃発した軍事衝突、いわゆるガルワン紛争以来続いていた緊張関係の緩和に向けて一定の進展が見られたためであった。首脳会談の2日前、両国は係争地域からの部隊撤退とパトロール再開に関する合意を発表していた。以後、インドと中国はそれまで停止していた他の争点をめぐる交渉を再開し、協力の拡大に向けて動き出している。

 現在のインドの対中国政策はどのような状況にあるのか。そして、中国に対して不信を募らせていたインドは、なぜ中国との関係改善へと舵を切ったのか。本稿では、2024年10月の合意に至る経緯と、それから両国が国交樹立75周年を迎えた2025年4月1日までの動向を整理し、インド側の狙いに焦点をあてて分析を行ってみたい。


根強いインドの対中不信とその背景

 モーディー政権は、ガルワン紛争以前から、中国政府への不信感を募らせていた。インド側の報道によると、政権初年度の2014年9月、習主席がインド・ニューデリーを訪問しているその最中、中国側からの国境侵犯事案があり、モーディー首相が習主席に直接抗議した2。それでも当時、インド政府は経済発展の実現のために中国との協力を進めるスタンスを維持し、中国主導のアジア・インフラ投資銀行(AIIB)にも設立メンバーとして参加していた。しかし2017年6月からブータン領内のドクラム高原に侵入した中国軍とインド軍の対峙する事案が発生したことで、インドは中国に対する姿勢を一層硬化させた3。中国側はインド国境付近でのインフラ整備を進め、インド側も対抗措置を急いだ。

 その後、インドは経済政策においても中国との距離を取る方針に転じた。インドは2018年から関税を引き上げて国内産業の育成を図る保護貿易の姿勢を強めているが、中国からの輸入拡大を食い止めることがその主眼であり4、2019年11月に「地域的な包括的経済連携協定(RCEP)」の締結交渉からインドが離脱する背景となった5。2020年4月には外国直接投資(FDI)政策を改定し、投資を事前認可制とする対象国に中国を加えた6。折しも同年3月からロックダウンを実施していたコロナ禍の最中であり、同年5月からインド政府は巨額の経済対策パッケージ「自立したインド(Atmanirbhar Bharat)」を発表し、対中デカップリングによる経済的自立を試みることとなった7

 こうして、政治外交においても経済政策においても中国との隔たりが深まっていたところ、2020年6月、ガルワン紛争という決定的な事案が発生した。直後、インド政府は国境紛争が収まるまでは中国との関係を全面的に停止する方針を決定し、この方針が以後の対中政策の基本原則となった8

 ガルワン紛争の経緯をめぐる両国の見解は分かれているが、インド側の見方としては、中国側が一方的に過去の取り決めを破って残忍な攻撃を仕掛けてきたものと理解されている9。しかも、コロナ禍という国難にインドが瀕しているタイミングであったことが、中国に対する憎悪をインド国民にかき立てることとなった10。こうした国民感情は、インド政府にとって中国との関係改善を進めることを難しくした11


総選挙と関係改善の兆し

 こうしてインド政府は中国とのデカップリング政策を採用したが、経済活動の実態は伴わなかった。政府の方針に反して、インドの民間企業は中国との取引を続けたことにより、中国からの輸入は拡大を続けた12。他方で、両国政府の規制により投資は制約されていた。次第に経済界からは関係修復を求める声が強まった。

 さらに、2024年6月にインドの総選挙が終わったことにより、対中関係改善に向けた環境が整った。それは、国政選挙のタイミングがしばらく遠ざかることで、世論の反中感情にとらわれずに関係改善を進めやすくなったことを意味し、また、議席数を大幅に減らした政権与党が権力基盤を固めるためには経済状況の改善が不可欠との認識を得たためであった13

 同年7月、インド政府が発表した経済分析は、中国からの投資増加によってインドの輸出を促進することを提案した14。これに対して商工大臣が対中政策の変更を否定するコメントを出すなど、政府内にも慎重姿勢が残っていたが15、外交・安全保障当局は関係修復を進め、9月に両国の責任者レベルでの会談が行われ、10月の国境問題の合意発表と首脳会談が実現するに至ったのである。


合意後の関係改善進展

 2024年10月の合意は、領土をめぐる両国の主張の根本的な相違を解消するものではなく、ガルワン紛争以来続いていた両軍の対峙を解消するための取り決めである16。紛争の直後から協議に基づき両軍の引き離しが段階的に行われてきており、残された最後の2地域での撤収に合意するものであった17

テーブルの例
表:ガルワン紛争とその後の段階的な撤兵
  • 2020年4月~5月:中国軍が実効支配線(LAC)を超えてインド側に進出
  • 2020年6月15日:両軍兵士が発砲を伴わない戦闘、死傷者多数
  • 2020年7月:第1段階の撤兵(ガルワン渓谷)
  • 2021年2月:第2段階の撤兵(パンゴン湖)
  • 2021年8月:第3段階の撤兵(ゴグラ地域)
  • 2022年9月:第4段階の撤兵(ホット・スプリング)
  • 2024年10月:最終段階の撤兵(デムチョク平原、デプサン平原)
  • 2024年11月:合意に基づきパトロール再開

(出所)Saheb Singh Chadha, Negotiating the India-China Standoff: 2020–2024 (Carnegie India, 2024)に基づき筆者作成。


 インド政府は国境地域の平和と安寧を関係再開の条件とする基本方針を変更していないが、両軍の引き離しが実現したことによってこの条件がクリアされたと判断し、他の問題で中国政府との協議を再開するゴーサインを出した。2024年12月3日にS・ジャイシャンカル外相が行った国会答弁において、そうした方針を確認できる18

 早速、具体的な成果として、2025年1月、コロナ禍の2020年以来中断していた両国間の直行フライトを再開する方針で合意している19

 両国首脳から前向きな発言が続いた。モーディー首相は、2025年3月、ポッドキャストにおけるインタビューで、両国は競争する関係にあるものの協力を進めるとする発言を行った20。習主席も同年4月1日、国交樹立75周年に際した書簡で「龍と象のタンゴ」を実現させるべきと記し、協力への意欲を示した21


おわりに

 2024年10月の合意により、ガルワン以来の国境をめぐるインドと中国の緊張関係はひとまず緩和し、他の争点における対話を再開した。しかしジャイシャンカル外相などインド側当局者の発言を辿ると、国境問題をめぐる中国への不信は解消されていないことが読み取れる。つまり、インドは全面的に中国との関係改善に舵を切ったのではなく、国境問題での備えを強めながらも、経済など両国の利害が一致する争点では協力を行う、ガルワン以前の方針に回帰したと見るべきであろう22。専門家や当事者の間では当たり前のことだが、インドと中国は国境問題を解決したのではなく、利害が一致する問題での対話を行いうるレベルに戻ったに過ぎない。

 最後に、全面的ではないにせよ、インドが中国との協力を再開した理由について、整理しておきたい。

 インド国内においては、経済的要請がその主たる理由であった。中国とのデカップリングによって国内産業の保護と育成を図る方針が失敗に終わり、中国からの投資を活用する方針への変更を余儀なくされたのである。また、総選挙が終わったことで反中世論に配慮する必要性が低下し、国内経済の観点を優先させる状況が整っていた。

 ここまで触れてこなかったが、国際情勢も印中の接近を促す方向で作用した。ひとつはロシア要因である。ロシア・ウクライナ戦争後に西側諸国との溝を深めたロシアが、BRICSのコアとなるべき中国とインドの関係修復を望み、働きかけを行っていた23。この3カ国の関係に着目すると、インドとしては中国とロシアの関係が緊密化して自国が疎外される懸念を抱き、中国としても自国だけがロシアの味方として国際社会で突出することは望ましくなかったはずである24。そしてもうひとつは、もちろんアメリカ要因である。大統領選挙中からトランプ陣営は保護貿易の方針を示しており、そして実際にスタートした第2期トランプ政権ではインドや中国にも関税を課す方針を発表した。インドは、中国と経済分野で協力しうる関係、あるいは少なくとも協議をなしうる関係へと戻ることが必要となったのである。





執筆者プロフィール
溜 和敏(たまり・かずとし)
中京大学 総合政策学部/人文社会科学研究科/経済学研究科 教授

中央大学大学院法学研究科博士後期課程修了、ジャワーハルラール・ネルー大学国際学研究科国際政治・国際組織・軍縮センターM.Phil.課程修了。高知県立大学文化学部准教授などを経て2024年4月より現職。2024年9月よりジャワーハルラール・ネルー大学国際学研究科東アジア研究センター客員研究員としてインド・デリー在住。専門は国際関係論、インドの国際関係、現代日印関係。著書に『なぜアメリカはインドに譲歩したのか――印米原子力協力協定への道』(勁草書房、2024年)など。博士(政治学)。



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