ロシアによるウクライナ侵略は
あらゆる戦争法規と紛争人道法を無視した蛮行
あらゆる戦争法規と紛争人道法を無視した蛮行
掲載日:2024年3月1日
元ウクライナ駐箚日本国特命全権大使
角 茂樹
2022年2月24日にロシア軍がウクライナ攻撃を始めてから2年が経過したが戦争の収束は全く見えない。人類の歴史は、戦争の歴史でもあったが、それでも第一次大戦、第二次大戦という惨劇を踏まえ、紛争解決の手段として武力を行使することを禁止し、紛争が起こった場合にも非戦闘員を守るための人道法規を築き上げてきた。ロシアのウクライナ侵略は、その双方を完全に破壊するという意味で衝撃的な出来事である。
1.近代の戦争違法化と紛争人道法の成立
中世期のキリスト教は、戦争には正しい戦争と不正な戦争があるとして正戦論を打ち出したが、教会の世俗権威の失墜と17世紀以降の主権国家の台頭は、国家間の争いを最終的に武力に訴えて解決することもやむなしという無差別戦争論を生んだ。19世紀に入ると戦争は、産業革命による殺傷能力の格段の向上と、国民国家(ナショナリズム)の台頭によって非戦闘員である民間人をも巻き込む戦いとなった。国民の間に芽生えたナショナリズムは、戦争をそれまでの限られた職業軍人によるものではなく国民全てを動員する総力戦に変えたのである。
1859年、スイス人のアンリ・デュナンは、北イタリアのソルフェリーノで行われたフランス、サルジニア軍とオーストリア軍の間の戦いにおける多くの負傷者を目のあたりにして、軍人であっても一旦負傷すれば非戦闘員として救援されなくてはならないとの考えのもとに赤十字運動を開始した。これをきっかけに国際社会は、国家が紛争解決の手段として戦争に訴える権利は認めつつもそれが不必要な苦しみを与えない為の戦争のルールにまず目を向けた。これは後に、紛争人道法と呼ばれる国際法規となる。ハーグ条約陸戦規定、海戦規定がその成果である。1914年に起きた第一次世界大戦は、4年にわたった戦争であり、国際社会は、その反省から国際連盟を設立した。ただし国際連盟規約は、戦争の抑止条項を置いているが全面的禁止という条項は含んでいない。
1928年、国際紛争を解決する手段として戦争に訴えることを禁じる「パリ平和条約」が結ばれる。戦争を全面的に禁止したという意味では画期的な条約であったが、戦争ではないとする武力の行使、自衛のための戦争の可否といった問題にあいまいさを残していた。そのため、イタリアのエチオピア侵略、日本が戦争ではなく事変であると強弁した満州事変、日華事変を許した。1929年には、戦争捕虜に関する条約が結ばれ捕虜を憎悪の対象ではなく、保護すべき対象であることが規定された。これも総加盟条項(条約に加盟していない国には適用されないという条項)を含んでいたため第二次大戦中にドイツと条約に不加盟であったソ連との間で行われた捕虜の虐待を止めることはできなかった。
1939年に勃発した第二次大戦は、第一次大戦をも上回る損害を世界に与え、世界はさらに平和機能を強化した国際連合を創出する。国際連合憲章は、まず紛争を解決する手段としての武力行使を全面的に禁止した。戦争とは考えられなくとも武力の行使を一切禁止したのである。この条項に実行性を持たせるために国連憲章は、安全保障理事会が国際の平和と安定の維持回復のために必要と認めた場合と自衛のための個別的、集団的自衛権に限って武力の行使を認めている。
さらに第二次大戦後に開かれたニュールンベルグ裁判と極東裁判は、それまでの戦争犯罪に加え平和に対する犯罪と、人道に対する犯罪を裁くとともに、国のみではなく、これらの罪を犯した個人をも裁くという国際法を確立した。この流れに加え国際赤十字のイニシアティブにより紛争人道法規が強化され、ジュネーブ人道諸条約が結ばれた。これまでの陸上、海上規定に加え、捕虜規定、文民の保護、民族解放戦線の取り扱い、内戦における武力勢力の取り扱い、赤十字記章の取り扱いといった分野でその規制対象を広げていったのである。それまで無防備都市の攻撃のみを禁止していた陸戦法規は、非軍事施設の攻撃を禁止するなどさらに民間の保護を徹底した。
1990年に発生したイラクのクウェート侵略においては、冷戦の終了とも相まって国連の平和維持機能がフルに機能した。国連安保理は機能し、国連が創設した多国籍軍の攻撃もおおむねジュネーブ人道条約に沿って行われた。当時、自分は国連代表部においてこの問題を担当していたが、同時期カンボジア問題解決に関しても国連が主体的役割を果たしたこともあり、今後は、国連を中心とした世界平和の維持の時代が来るとの興奮が多くの人々に巻き起こったことをよく覚えている。国際社会は、更にユーゴスラビア、ルワンダにおいては、個人の罪を裁くために特別法廷を安全保障理事会の決議により樹立した。これを恒常的な裁判所としたのが2003年に活動を開始した国際刑事裁判所である。
こうした着実な国際社会による紛争のコントロ-ルによる努力に逆行する動きが1990年代から起きていた事も事実で、ソマリア紛争、ルワンダ虐殺といった問題に対して国際社会は、有効な手段を打てなかった。2001年の9.11事件は、その後国連憲章上疑義のある米国のイラク攻撃に発展する。アフガンにおいて米国が捕獲した要員に対する人道法規を無視した過酷な取り扱いは、米国の道徳的権威を傷つける事態であった。シリア内戦に関する各国の対応の乱れも国連を中心とする国際社会の失敗である。
2.ウクライナ侵略に見るロシアの違法性
しかしこうした事情があっても2014年にウクライナ国民が起こした親ロシア派大統領ヤヌコビッチの追放を契機にロシアが行ったクリミア併合と今回の侵略は、これまでの戦争抑止の努力を根本から覆す事態であった。
2021年7月プーチン大統領は、「ロシアとウクライナの歴史的一体性」と題する論文を発表し、ロシアとウクライナは、民族的にも歴史的にも宗教的にも、言語的にも一つの人々であって、これを割こうとするのは、米国とEUそしてそれに乗せられた間違ったウクライナの指導者であると論じ、ウクライナの主権はロシアのパートナーシップの範囲内でのみ存続するという結論を導き出している。プーチンによればそのような一体性を損なうことを防止することが今回の戦争の理由なのである。
プーチンは、またウクライナ東部においてロシア語を話す住民に対する迫害の防止を侵攻の理由に挙げている。私は、ウクライナに在勤した間に東部に頻繁に出張したが、住民から迫害があったとの証言など一度も得られていない。そもそもプーチンが住民迫害を言い出したのは侵略開始直前でありそれまでそのような発言を一度も行っていないこと自体その信ぴょう性を否定するに十分であろう。いかなる理由によっても武力行使を禁止した21世紀にこれほど身勝手な理由で侵略を正当化することは、蛮行以外の何物でもない。
そもそもロシアとウクライナの一体性とは何であろうか。ウクライナは、その歴史を9世紀から13世紀にかけて欧州最大級の公国として栄えたキーウを首都とするキーウ・ルーシー公国に求める。それが13世紀にモンゴルの襲来により崩壊。以後14世紀から18世紀にかけてウクライナの地の大部分は、ポーランド・リトアニアの影響下に置かれる。ロシアがキーウ・ルーシー公国の辺境の地にモスクワ公国として勃興してきたのは13世紀であり、そのロシアがウクライナの土地に進出してきたのは、17世紀末であって、ロシアが現在のウクライナの大部分を領土に加えるのは、18世紀にポーランド分割を行ったエカテリーナの時代に過ぎない。ウクライナ人からしてみれば後にロシアを名乗るモスクワ公国とキーウ・ルーシー公国は全く別の存在であって、同根の歴史を有するとするプーチンの歴史観は全く受け入れられないのである。
またプーチンは、クリミアはロシアの固有の領土などと説明しているが、クリミアがロシアの領土に併合されたのは、18世紀後半のロシアとオスマントルコとの戦争の結果に過ぎない。さらにプーチン論文は、ウクライナ語とロシア語は、古ロシア語として同じルーツを持つとしているが、ウクライナは、長い間、ポーランドの影響下にあったことからウクライナ語は言語としてもむしろポーランド語に近い響きを有する。宗教的にも確かに10世紀にキーウ・ルーシー公国のウラジミール大公がビザンチン帝国よりキリスト教を受け入れ、それがその後モスクワ公国そしてロシアに伝播したことは事実であるが、キーウにあった正教会は、モンゴル及びポーランドの影響下にあってもコンスタンチノープルの管轄下にある組織として存続していたのであって、モスクワの総主教府の下に置かれることになったのは、17世紀の末の事である。プーチン論文が主張するロシアとウクライナの一体性なる物は、身勝手な妄想に過ぎない。
ウクライナの人々は、ウクライナが地政学的にもロシアに代表されるスラブ正教会の世界とポーランド、オーストリアに代表される西欧カトリック圏の間に位置してきたことから、その双方から影響を受けつつ独自のアイデンティティ獲得してきた。これに対し、ロシアは、13世紀にモスクワ公国として勃興してすぐにタタールと呼ばれるモンゴルの支配に入ってしまったため、15世紀にいたるまで事実上鎖国に近い状況に置かれていた。そのうえギリシャ語またはラテン語で読まれるべき聖書が早くからスラブ語に訳されたため、当時社会の知識層であったロシアの聖職者はラテン語、ギリシャ語を解さず、その結果、近代にいたるまでローマ法をはじめとする欧州の法律、文化に触れずにきた。これがロシア独自の世界観をつくりあげてしまったと考えられる。
その点ウクライナは違う。前述のようにポーランド、オーストリアに支配されたウクライナは、ルネッサンス、宗教改革、啓蒙主義といった西欧の影響を絶えず受けてきた。そのうえポーランドの勢力下にあった時期においては、コサックという自治組織が発展し、その頭領を選挙で選ぶという専制国家ロシアとは異なる民主的な体制を経験している。この違いは、ソ連崩壊後ウクライナに民主主義が根付いたのに対し、ロシアは、非民主的な独裁者を志向し、ルースキー・ミールと呼ばれるロシアを中心とした世界観を作る要因となる。
3.ウクライナが受けたロシアよりの弾圧
ウクライナは、18世紀後半にその大部分がロシア、その後ソ連の一部となるが、その間、ウクライナがロシアから受けた弾圧はウクライナ人にとって許すことのできない傷となっている。19世紀、ウクライナにおいて他の欧州と同様にナショナリズムが高まるが、これに対してロシアは、ウクライナ語の出版禁止、学校教育におけるロシア語の強要で応じた。
第一次大戦中の1917年、ロシア帝国が崩壊するとウクライナにおいて独立運動が各地で起こったが、結局ソ連の赤軍に鎮圧される。1932年から1933年にかけては、スターリンがウクライナにおいて行った無理な集団農業化の失敗と食料の収奪によりホロドモールと呼ばれる大飢饉が発生し、400万人ともいえるウクライナ人が餓死した。
第二次大戦中は、ナチスドイツとソ連両軍の激戦地となり大きな被害が発生する。この時、西部ガリツィア地方を中心にステファン・バンデーラという独立運動指導者が、当初は、ナチスドイツの力を借りて、その後は、ナチスと対立して、ナチスドイツが崩れ去った後は独力でソ連に対して独立運動を継続する。この運動に対するソ連の弾圧はすさまじく、運動の拠点であったガリツィア地方から多くのウクライナ人が国を追われ、カナダその他の国に移住する。プーチンがウクライナにおけるネオナチと呼んで嫌悪する勢力とは、バンデーラに代表される反ロシア的民族主義者を指す。プーチンが、ユダヤ系のゼレンスキーをネオナチと呼んでいるのは、ゼレンスキーが反ロシアかつウクライナ民族主義者であるからである。このように近代においてもウクライナとロシアは、何回も戦火を交えている。
4.独立後のアイデンティティの模索
1991年にウクライナは平和裏に独立を達成する。独立を達成したものの東部には、ロシア語を母語とする住民が、また西部には、独立運動を主導してきたウクライナ語を話す住民がおり、そのうえ東部の工業地帯の製品が売れる市場といえばロシアしかなかった。また、ウクライナにとって重要な天然ガスは、ロシアから市場価格に比べて安価に提供されているという事情もあった。独立後の15年間は、こうした親ロシア派と親西欧派という国内のバランスを保つうえで歴代大統領は、歴史的にソ連時代に起こった負の歴史を封印し続けた。1994年には、米、英、ロシア、ウクライナの間でウクライナが核兵器を放棄する見返りとしてウクライナの安全保障を約束した合意が結ばれる。世にいうブタペスト合意である。この合意に基づけば、ロシアが現在行っていることは論外としても、米国と英国はウクライナの安全を保障する義務を負っている。
2004年のオレンジ革命を経て成立したユーシチェンコ大統領は、親西洋政策をとる。プーチンが大ロシア再建を顕在化させる時期と重なり、両国の関係は緊張をはらんだものとなっていく。これまでタブーであった、ホロドモールが公に語られ、その慰霊碑が建てられる。ロシアがネオナチとして忌み嫌うバンデーラを称える銅像が西部を中心に立てられたのもこの時期である。2008年にはウクライナはジョージアとともにNATO加盟を申請し、将来の加盟国としての地位を得る。これは、将来の事であるとしながらも原則としてNATOがウクライナまで拡大することを認めたことを意味する。ロシアは、この決定に怒った。ロシアは、ウクライナに供給する天然ガス価格の大幅な上げを通告し、ロシアと欧州をつなぐ天然ガスパイプラインの輸送が止まり、ロシアよりガス供給を受ける欧州は、大騒ぎとなった。
5.ウクライナを失ったプーチン
2014年、親ロシア政権とみられていたヤヌコビッチ大統領がユーロマイダン革命により失脚する。前年の12月EUとの間で締結が決まっていた経済連携協定(これは、ウクライナからEUに無関税で製品を輸出できるものであり、EU加盟の第一歩とみなされた)締結をヤヌコビッチが突然破棄した事に怒った大規模な反ヤヌコビッチ抗議デモがキーウにおいて発生したことによる。ヤヌコビッチが、なぜEUとの協定締結を破棄したかというと、プーチンが、多額の資金援助と債務帳消しをちらつかせウクライナに協定の破棄を迫ったからである。ヤヌコビッチの国外逃亡後、ウクライナにおいて親西洋政権の誕生が止められないと見たプーチンは、クリミアを併合。ドンバスにおける親ロシア派グループによる反政府運動を支援するとして軍事介入を行いウクライナ側に多くの死傷者を生む。
この時、ウクライナ人が受けた衝撃は大きかった。これまでロシアを兄弟国と信じてきた東部のロシア語を話す住民がそのロシアによって殺され、家を失い難民となり反ロシアになったのである。
私も2014年から2019年のウクライナ在勤中に東部に頻繁に出張し、日本の援助によって修復された家、図書館、学校を見て回りながら住民と親しく話しあう機会に恵まれたが、ロシアから受けた仕打ちを呪詛する場にたびたび遭遇した。プーチンは、2014年の段階で既にウクライナを永遠に失ったのである。
6.ポロシェンコ大統領による脱ロシア政策の推進
こうして、2014年のロシアの侵略によりそれまで親ロシア派と親西欧派の間で揺れ動いていたウクライナにウクライナ人としての自覚とEUとNATO加盟にこそウクライナの将来があるという国民の意思統一を生む。2014年に大統領に就任したポロシェンコは、ロシアが占領したドンバスの回復のためオーランド大統領、メルケル首相の助けを借りてミンスク合意1と2を結んだ。プーチンは、ウクライナ側のミンスク合意違反を批判しているがミンスク合意は、ドンバスの自治選挙の実施とロシア軍の撤退との関係など時系列が不明確である等不明な点が多い合意である。ウウクライナは、ポロシェンコ時代にEUと経済連携協定を結び経済的もロシア離れとEU接近を確実に実施していく。この結果ロシアのとの間で25パーセントを占めていたウクライナの貿易量は、2021年には7パーセントにまで低下する。
NATOによるウクライナ軍の訓練も始まる。米国その他から多くの軍事顧問団がウクライナ軍の再建に尽力しウクライナ軍は著しく強化される。今次侵略に際してウクライナ軍が頑強に抵抗できたのはこのような支援と訓練の成果である。ただこの時も米国は、いわゆる殺傷兵器をウクライナに供与する事には、極めて慎重であった。
2019年1月には、ポロシェンコ大統領がかねて熱心に取り組んでいたウクライナ正教会をモスクワの総主教府から独立させることに成功する。コンスタンチノープルのバーソロミュー全地総主教がそれを公に認めたのである。正教会を通じたロシアとウクライナの一体性を主張するプーチンとキリル・モスクワ総主教にとって大きな打撃である。同年2月にはウクライナ憲法が改正され、EUと NATO加盟がウクライナ憲法に明記される。3月に大統領選が行われポロシェンコとゼレンスキーの間で大統領選が戦われるが、もはや親ロシアか親西欧かといった問題は争点とならず、どちらもEU加盟、NATO加盟を目標に掲げ選挙運動を行った。
7.ゼレンスキー大統領
2019年3月圧倒的支持を受けてゼレンスキーが大統領に当選する。ゼレンスキーは、当初ロシアとの和平合意を目指し、2019年7月にはプーチンとの電話会談、12月には、パリにおいてメルケル、マクロンとともにプーチンとの会談に臨む(ノルマンディー・フォーマット)。この過程でゼレンスキーは、10月にロシアとの交渉に柔軟さが必要との見解を示すプランを発表するが国内から非難を受け、またプーチンとの話し合いにおいても解決の糸口は見えず外交の難しさを知ることになる。
ゼレンスキーは、ポロシェンコが進めたEU接近政策をさらに推し進めた。
8.ロシアによるウクライナ侵略
2022年2月24日以降のロシアの蛮行は、無実の市民の虐殺、発電所、インフラの破壊といったその残忍さにおいて人々を震撼させた。ブッチャその他で行われた虐殺は、人道法規の明らかな違反である。日本においては報道規制があり報じられていないがロシア軍は、住民の目をくりぬいて殺すという残忍な殺戮を行ったのである。これは、19世紀以来非戦闘員の保護を確立してきた国際社会の努力を水泡に帰した行為である。ウクライナ人にとってロシアに降伏することは国民の虐殺を意味する。プーチンの頭には、大ロシア再建のためは、ロシア発祥の地(とロシアは考える)でありロシア帝国時代、ノヴォロシア(新たなロシア)と呼んだウクライナがロシアの影響下にあることが不可欠であり、その為にはゼレンスキーという反ロシア主義者を排除すれば良いと考えている。今回のプーチンによるウクライナ侵略は、その非合理性からそうとしか説明できない。
9.国際秩序を揺るがす問題
今回のロシアによるウクライナ侵略は国際社会が築き上げてきた世界の安全保障体制を根本から揺るがすものである。国連は、安全保障理事会を設け、米国、ロシア、中国、英国そしてフランスの五カ国を国際の平和の維持と回復に責任を持つ世界の警察官として常任理事国とするとともに、拒否権という特権を与えた。
今回、国際の平和と維持に一次的責任を有するロシアが侵略を行ったという事はまさしく国連の安全保障機能を根幹から揺るがす出来事である。また、核拡散防止条約は、米国、ロシア、中国、フランス、英国に核兵器の保有を認め他の国にはそれを禁じるという不平等条約であるが、それを正当化する理由として、核保有国は核の保有は、他国に核を使わせない抑止のためであるとの理由をあげてきた。今回プーチンが、核を保有していないウクライナに対して核の使用をほのめかしたことは、核拡散防止条約の存立意義を損なうほどの衝撃を与える発言である。
他方、国際刑事裁判所は、侵略犯罪、戦争犯罪、人道犯罪そしてジェノサイド(民族または宗教を理由とする虐殺)に関する個人の犯罪を裁く機関であるが、今回のプーチンの行為については、ウクライナ児童の強制移動が戦争犯罪に当たるとしてプーチンに逮捕状を発出した。国際刑事裁判所は、強制機能を有しないがとにもかくにも逮捕状を出した意義は認めて良い。
日本は自国の安全をどのように考えるべきであろうか。まずは、ロシアによる蛮行を絶対に許さないとの決意のもとG7、EU及びNATOと協力しつつできる限りのウクライナ支援を続ける必要があろう。日本の周辺を見渡せば中国は台湾の武力解放を否定しないとしており、北朝鮮は、核を保有するとともにミサイル発射を繰り返している。ロシアがウクライナにおいて行っている侵略行為と虐殺行為は、他人事ではない。これを止め、罰する事により侵略行為が高くつく事を知らせる事は、日本の周囲における同様の侵略行為の抑止になるからである。日本は、米国をはじめとするG7そしてNATOとの関係をさらに強化する重要性がある。
さらに自国の安全保障が脅かされた場合の安全保障をどのように確保するかについて真剣に考える必要がある。米国との安全保障条約があるから大丈夫とする考えは安易に過ぎよう。米国は、確かにウクライナに多額の軍事支援を行っているが、NATOがロシアと直接対峙しないとの条件付きの支援であることを忘れてはならない。日本が有事に見舞われた場合、米国は、自国の軍人が多量に犠牲となるリスクを冒してまで日本を支援するかにつき楽観的に考えない方がよい。中国の軍事力、北朝鮮の核は米国に対しても大きな損害を与える威力を有している。米国は、民主国家であり米国政府が自国民を危険に落とし入れてまで 対日支援を行うかは疑問である。日本にとって重要なことは戦争という国家の存亡に関する議論をタブー視せずに論じること、そしてロシアのウクライナ侵略は他人事ではないという事が今回のロシアのウクライナ侵略が突き付けた最大課題ではなかろうか。
執筆者プロフィール
角 茂樹(すみ しげき)
元駐ウクライナ特命全権大使、玉川大学客員教授
岩手大学客員教授、川村学園女子大学客員教授、上智大学大学院客員講師
1977年一橋大学商学部卒業、1980年オックスフォード大学卒業、1977年外務省に入省、国際機関畑が長く国連代表部政務書記官、ジュネーブ代表部人権委員会、ILOその他専門機関担当参事官、PKO室長、国際社会協力部参事官を歴任。2005年から在ウィーン国際機関代表部大使、2008年から国際連合代表部大使、2011年から駐バーレーン特命全権大使、2014年から駐ウクライナ特命全権大使を務め2019年退官。主な著書に「国際平和協力入門」(共著)(有斐閣選書1995年)、「1990年代はじめの国連と日本」(国連ジャーナル2006年秋号)、「日本のPKO参加の黎明期(小和田判事退官記念論文集 信山社 2021年)、「オデッサ領事館異聞」(神戸学院経済学論集2021年)、「ウクライナ侵攻とロシア正教会」(河出夢新書 2022年)。
元ウクライナ駐箚日本国特命全権大使
角 茂樹
2022年2月24日にロシア軍がウクライナ攻撃を始めてから2年が経過したが戦争の収束は全く見えない。人類の歴史は、戦争の歴史でもあったが、それでも第一次大戦、第二次大戦という惨劇を踏まえ、紛争解決の手段として武力を行使することを禁止し、紛争が起こった場合にも非戦闘員を守るための人道法規を築き上げてきた。ロシアのウクライナ侵略は、その双方を完全に破壊するという意味で衝撃的な出来事である。
1.近代の戦争違法化と紛争人道法の成立
中世期のキリスト教は、戦争には正しい戦争と不正な戦争があるとして正戦論を打ち出したが、教会の世俗権威の失墜と17世紀以降の主権国家の台頭は、国家間の争いを最終的に武力に訴えて解決することもやむなしという無差別戦争論を生んだ。19世紀に入ると戦争は、産業革命による殺傷能力の格段の向上と、国民国家(ナショナリズム)の台頭によって非戦闘員である民間人をも巻き込む戦いとなった。国民の間に芽生えたナショナリズムは、戦争をそれまでの限られた職業軍人によるものではなく国民全てを動員する総力戦に変えたのである。
1859年、スイス人のアンリ・デュナンは、北イタリアのソルフェリーノで行われたフランス、サルジニア軍とオーストリア軍の間の戦いにおける多くの負傷者を目のあたりにして、軍人であっても一旦負傷すれば非戦闘員として救援されなくてはならないとの考えのもとに赤十字運動を開始した。これをきっかけに国際社会は、国家が紛争解決の手段として戦争に訴える権利は認めつつもそれが不必要な苦しみを与えない為の戦争のルールにまず目を向けた。これは後に、紛争人道法と呼ばれる国際法規となる。ハーグ条約陸戦規定、海戦規定がその成果である。1914年に起きた第一次世界大戦は、4年にわたった戦争であり、国際社会は、その反省から国際連盟を設立した。ただし国際連盟規約は、戦争の抑止条項を置いているが全面的禁止という条項は含んでいない。
1928年、国際紛争を解決する手段として戦争に訴えることを禁じる「パリ平和条約」が結ばれる。戦争を全面的に禁止したという意味では画期的な条約であったが、戦争ではないとする武力の行使、自衛のための戦争の可否といった問題にあいまいさを残していた。そのため、イタリアのエチオピア侵略、日本が戦争ではなく事変であると強弁した満州事変、日華事変を許した。1929年には、戦争捕虜に関する条約が結ばれ捕虜を憎悪の対象ではなく、保護すべき対象であることが規定された。これも総加盟条項(条約に加盟していない国には適用されないという条項)を含んでいたため第二次大戦中にドイツと条約に不加盟であったソ連との間で行われた捕虜の虐待を止めることはできなかった。
1939年に勃発した第二次大戦は、第一次大戦をも上回る損害を世界に与え、世界はさらに平和機能を強化した国際連合を創出する。国際連合憲章は、まず紛争を解決する手段としての武力行使を全面的に禁止した。戦争とは考えられなくとも武力の行使を一切禁止したのである。この条項に実行性を持たせるために国連憲章は、安全保障理事会が国際の平和と安定の維持回復のために必要と認めた場合と自衛のための個別的、集団的自衛権に限って武力の行使を認めている。
さらに第二次大戦後に開かれたニュールンベルグ裁判と極東裁判は、それまでの戦争犯罪に加え平和に対する犯罪と、人道に対する犯罪を裁くとともに、国のみではなく、これらの罪を犯した個人をも裁くという国際法を確立した。この流れに加え国際赤十字のイニシアティブにより紛争人道法規が強化され、ジュネーブ人道諸条約が結ばれた。これまでの陸上、海上規定に加え、捕虜規定、文民の保護、民族解放戦線の取り扱い、内戦における武力勢力の取り扱い、赤十字記章の取り扱いといった分野でその規制対象を広げていったのである。それまで無防備都市の攻撃のみを禁止していた陸戦法規は、非軍事施設の攻撃を禁止するなどさらに民間の保護を徹底した。
1990年に発生したイラクのクウェート侵略においては、冷戦の終了とも相まって国連の平和維持機能がフルに機能した。国連安保理は機能し、国連が創設した多国籍軍の攻撃もおおむねジュネーブ人道条約に沿って行われた。当時、自分は国連代表部においてこの問題を担当していたが、同時期カンボジア問題解決に関しても国連が主体的役割を果たしたこともあり、今後は、国連を中心とした世界平和の維持の時代が来るとの興奮が多くの人々に巻き起こったことをよく覚えている。国際社会は、更にユーゴスラビア、ルワンダにおいては、個人の罪を裁くために特別法廷を安全保障理事会の決議により樹立した。これを恒常的な裁判所としたのが2003年に活動を開始した国際刑事裁判所である。
こうした着実な国際社会による紛争のコントロ-ルによる努力に逆行する動きが1990年代から起きていた事も事実で、ソマリア紛争、ルワンダ虐殺といった問題に対して国際社会は、有効な手段を打てなかった。2001年の9.11事件は、その後国連憲章上疑義のある米国のイラク攻撃に発展する。アフガンにおいて米国が捕獲した要員に対する人道法規を無視した過酷な取り扱いは、米国の道徳的権威を傷つける事態であった。シリア内戦に関する各国の対応の乱れも国連を中心とする国際社会の失敗である。
2.ウクライナ侵略に見るロシアの違法性
しかしこうした事情があっても2014年にウクライナ国民が起こした親ロシア派大統領ヤヌコビッチの追放を契機にロシアが行ったクリミア併合と今回の侵略は、これまでの戦争抑止の努力を根本から覆す事態であった。
2021年7月プーチン大統領は、「ロシアとウクライナの歴史的一体性」と題する論文を発表し、ロシアとウクライナは、民族的にも歴史的にも宗教的にも、言語的にも一つの人々であって、これを割こうとするのは、米国とEUそしてそれに乗せられた間違ったウクライナの指導者であると論じ、ウクライナの主権はロシアのパートナーシップの範囲内でのみ存続するという結論を導き出している。プーチンによればそのような一体性を損なうことを防止することが今回の戦争の理由なのである。
プーチンは、またウクライナ東部においてロシア語を話す住民に対する迫害の防止を侵攻の理由に挙げている。私は、ウクライナに在勤した間に東部に頻繁に出張したが、住民から迫害があったとの証言など一度も得られていない。そもそもプーチンが住民迫害を言い出したのは侵略開始直前でありそれまでそのような発言を一度も行っていないこと自体その信ぴょう性を否定するに十分であろう。いかなる理由によっても武力行使を禁止した21世紀にこれほど身勝手な理由で侵略を正当化することは、蛮行以外の何物でもない。
そもそもロシアとウクライナの一体性とは何であろうか。ウクライナは、その歴史を9世紀から13世紀にかけて欧州最大級の公国として栄えたキーウを首都とするキーウ・ルーシー公国に求める。それが13世紀にモンゴルの襲来により崩壊。以後14世紀から18世紀にかけてウクライナの地の大部分は、ポーランド・リトアニアの影響下に置かれる。ロシアがキーウ・ルーシー公国の辺境の地にモスクワ公国として勃興してきたのは13世紀であり、そのロシアがウクライナの土地に進出してきたのは、17世紀末であって、ロシアが現在のウクライナの大部分を領土に加えるのは、18世紀にポーランド分割を行ったエカテリーナの時代に過ぎない。ウクライナ人からしてみれば後にロシアを名乗るモスクワ公国とキーウ・ルーシー公国は全く別の存在であって、同根の歴史を有するとするプーチンの歴史観は全く受け入れられないのである。
またプーチンは、クリミアはロシアの固有の領土などと説明しているが、クリミアがロシアの領土に併合されたのは、18世紀後半のロシアとオスマントルコとの戦争の結果に過ぎない。さらにプーチン論文は、ウクライナ語とロシア語は、古ロシア語として同じルーツを持つとしているが、ウクライナは、長い間、ポーランドの影響下にあったことからウクライナ語は言語としてもむしろポーランド語に近い響きを有する。宗教的にも確かに10世紀にキーウ・ルーシー公国のウラジミール大公がビザンチン帝国よりキリスト教を受け入れ、それがその後モスクワ公国そしてロシアに伝播したことは事実であるが、キーウにあった正教会は、モンゴル及びポーランドの影響下にあってもコンスタンチノープルの管轄下にある組織として存続していたのであって、モスクワの総主教府の下に置かれることになったのは、17世紀の末の事である。プーチン論文が主張するロシアとウクライナの一体性なる物は、身勝手な妄想に過ぎない。
ウクライナの人々は、ウクライナが地政学的にもロシアに代表されるスラブ正教会の世界とポーランド、オーストリアに代表される西欧カトリック圏の間に位置してきたことから、その双方から影響を受けつつ独自のアイデンティティ獲得してきた。これに対し、ロシアは、13世紀にモスクワ公国として勃興してすぐにタタールと呼ばれるモンゴルの支配に入ってしまったため、15世紀にいたるまで事実上鎖国に近い状況に置かれていた。そのうえギリシャ語またはラテン語で読まれるべき聖書が早くからスラブ語に訳されたため、当時社会の知識層であったロシアの聖職者はラテン語、ギリシャ語を解さず、その結果、近代にいたるまでローマ法をはじめとする欧州の法律、文化に触れずにきた。これがロシア独自の世界観をつくりあげてしまったと考えられる。
その点ウクライナは違う。前述のようにポーランド、オーストリアに支配されたウクライナは、ルネッサンス、宗教改革、啓蒙主義といった西欧の影響を絶えず受けてきた。そのうえポーランドの勢力下にあった時期においては、コサックという自治組織が発展し、その頭領を選挙で選ぶという専制国家ロシアとは異なる民主的な体制を経験している。この違いは、ソ連崩壊後ウクライナに民主主義が根付いたのに対し、ロシアは、非民主的な独裁者を志向し、ルースキー・ミールと呼ばれるロシアを中心とした世界観を作る要因となる。
3.ウクライナが受けたロシアよりの弾圧
ウクライナは、18世紀後半にその大部分がロシア、その後ソ連の一部となるが、その間、ウクライナがロシアから受けた弾圧はウクライナ人にとって許すことのできない傷となっている。19世紀、ウクライナにおいて他の欧州と同様にナショナリズムが高まるが、これに対してロシアは、ウクライナ語の出版禁止、学校教育におけるロシア語の強要で応じた。
第一次大戦中の1917年、ロシア帝国が崩壊するとウクライナにおいて独立運動が各地で起こったが、結局ソ連の赤軍に鎮圧される。1932年から1933年にかけては、スターリンがウクライナにおいて行った無理な集団農業化の失敗と食料の収奪によりホロドモールと呼ばれる大飢饉が発生し、400万人ともいえるウクライナ人が餓死した。
第二次大戦中は、ナチスドイツとソ連両軍の激戦地となり大きな被害が発生する。この時、西部ガリツィア地方を中心にステファン・バンデーラという独立運動指導者が、当初は、ナチスドイツの力を借りて、その後は、ナチスと対立して、ナチスドイツが崩れ去った後は独力でソ連に対して独立運動を継続する。この運動に対するソ連の弾圧はすさまじく、運動の拠点であったガリツィア地方から多くのウクライナ人が国を追われ、カナダその他の国に移住する。プーチンがウクライナにおけるネオナチと呼んで嫌悪する勢力とは、バンデーラに代表される反ロシア的民族主義者を指す。プーチンが、ユダヤ系のゼレンスキーをネオナチと呼んでいるのは、ゼレンスキーが反ロシアかつウクライナ民族主義者であるからである。このように近代においてもウクライナとロシアは、何回も戦火を交えている。
4.独立後のアイデンティティの模索
1991年にウクライナは平和裏に独立を達成する。独立を達成したものの東部には、ロシア語を母語とする住民が、また西部には、独立運動を主導してきたウクライナ語を話す住民がおり、そのうえ東部の工業地帯の製品が売れる市場といえばロシアしかなかった。また、ウクライナにとって重要な天然ガスは、ロシアから市場価格に比べて安価に提供されているという事情もあった。独立後の15年間は、こうした親ロシア派と親西欧派という国内のバランスを保つうえで歴代大統領は、歴史的にソ連時代に起こった負の歴史を封印し続けた。1994年には、米、英、ロシア、ウクライナの間でウクライナが核兵器を放棄する見返りとしてウクライナの安全保障を約束した合意が結ばれる。世にいうブタペスト合意である。この合意に基づけば、ロシアが現在行っていることは論外としても、米国と英国はウクライナの安全を保障する義務を負っている。
2004年のオレンジ革命を経て成立したユーシチェンコ大統領は、親西洋政策をとる。プーチンが大ロシア再建を顕在化させる時期と重なり、両国の関係は緊張をはらんだものとなっていく。これまでタブーであった、ホロドモールが公に語られ、その慰霊碑が建てられる。ロシアがネオナチとして忌み嫌うバンデーラを称える銅像が西部を中心に立てられたのもこの時期である。2008年にはウクライナはジョージアとともにNATO加盟を申請し、将来の加盟国としての地位を得る。これは、将来の事であるとしながらも原則としてNATOがウクライナまで拡大することを認めたことを意味する。ロシアは、この決定に怒った。ロシアは、ウクライナに供給する天然ガス価格の大幅な上げを通告し、ロシアと欧州をつなぐ天然ガスパイプラインの輸送が止まり、ロシアよりガス供給を受ける欧州は、大騒ぎとなった。
5.ウクライナを失ったプーチン
2014年、親ロシア政権とみられていたヤヌコビッチ大統領がユーロマイダン革命により失脚する。前年の12月EUとの間で締結が決まっていた経済連携協定(これは、ウクライナからEUに無関税で製品を輸出できるものであり、EU加盟の第一歩とみなされた)締結をヤヌコビッチが突然破棄した事に怒った大規模な反ヤヌコビッチ抗議デモがキーウにおいて発生したことによる。ヤヌコビッチが、なぜEUとの協定締結を破棄したかというと、プーチンが、多額の資金援助と債務帳消しをちらつかせウクライナに協定の破棄を迫ったからである。ヤヌコビッチの国外逃亡後、ウクライナにおいて親西洋政権の誕生が止められないと見たプーチンは、クリミアを併合。ドンバスにおける親ロシア派グループによる反政府運動を支援するとして軍事介入を行いウクライナ側に多くの死傷者を生む。
この時、ウクライナ人が受けた衝撃は大きかった。これまでロシアを兄弟国と信じてきた東部のロシア語を話す住民がそのロシアによって殺され、家を失い難民となり反ロシアになったのである。
私も2014年から2019年のウクライナ在勤中に東部に頻繁に出張し、日本の援助によって修復された家、図書館、学校を見て回りながら住民と親しく話しあう機会に恵まれたが、ロシアから受けた仕打ちを呪詛する場にたびたび遭遇した。プーチンは、2014年の段階で既にウクライナを永遠に失ったのである。
6.ポロシェンコ大統領による脱ロシア政策の推進
こうして、2014年のロシアの侵略によりそれまで親ロシア派と親西欧派の間で揺れ動いていたウクライナにウクライナ人としての自覚とEUとNATO加盟にこそウクライナの将来があるという国民の意思統一を生む。2014年に大統領に就任したポロシェンコは、ロシアが占領したドンバスの回復のためオーランド大統領、メルケル首相の助けを借りてミンスク合意1と2を結んだ。プーチンは、ウクライナ側のミンスク合意違反を批判しているがミンスク合意は、ドンバスの自治選挙の実施とロシア軍の撤退との関係など時系列が不明確である等不明な点が多い合意である。ウウクライナは、ポロシェンコ時代にEUと経済連携協定を結び経済的もロシア離れとEU接近を確実に実施していく。この結果ロシアのとの間で25パーセントを占めていたウクライナの貿易量は、2021年には7パーセントにまで低下する。
NATOによるウクライナ軍の訓練も始まる。米国その他から多くの軍事顧問団がウクライナ軍の再建に尽力しウクライナ軍は著しく強化される。今次侵略に際してウクライナ軍が頑強に抵抗できたのはこのような支援と訓練の成果である。ただこの時も米国は、いわゆる殺傷兵器をウクライナに供与する事には、極めて慎重であった。
2019年1月には、ポロシェンコ大統領がかねて熱心に取り組んでいたウクライナ正教会をモスクワの総主教府から独立させることに成功する。コンスタンチノープルのバーソロミュー全地総主教がそれを公に認めたのである。正教会を通じたロシアとウクライナの一体性を主張するプーチンとキリル・モスクワ総主教にとって大きな打撃である。同年2月にはウクライナ憲法が改正され、EUと NATO加盟がウクライナ憲法に明記される。3月に大統領選が行われポロシェンコとゼレンスキーの間で大統領選が戦われるが、もはや親ロシアか親西欧かといった問題は争点とならず、どちらもEU加盟、NATO加盟を目標に掲げ選挙運動を行った。
7.ゼレンスキー大統領
2019年3月圧倒的支持を受けてゼレンスキーが大統領に当選する。ゼレンスキーは、当初ロシアとの和平合意を目指し、2019年7月にはプーチンとの電話会談、12月には、パリにおいてメルケル、マクロンとともにプーチンとの会談に臨む(ノルマンディー・フォーマット)。この過程でゼレンスキーは、10月にロシアとの交渉に柔軟さが必要との見解を示すプランを発表するが国内から非難を受け、またプーチンとの話し合いにおいても解決の糸口は見えず外交の難しさを知ることになる。
ゼレンスキーは、ポロシェンコが進めたEU接近政策をさらに推し進めた。
8.ロシアによるウクライナ侵略
2022年2月24日以降のロシアの蛮行は、無実の市民の虐殺、発電所、インフラの破壊といったその残忍さにおいて人々を震撼させた。ブッチャその他で行われた虐殺は、人道法規の明らかな違反である。日本においては報道規制があり報じられていないがロシア軍は、住民の目をくりぬいて殺すという残忍な殺戮を行ったのである。これは、19世紀以来非戦闘員の保護を確立してきた国際社会の努力を水泡に帰した行為である。ウクライナ人にとってロシアに降伏することは国民の虐殺を意味する。プーチンの頭には、大ロシア再建のためは、ロシア発祥の地(とロシアは考える)でありロシア帝国時代、ノヴォロシア(新たなロシア)と呼んだウクライナがロシアの影響下にあることが不可欠であり、その為にはゼレンスキーという反ロシア主義者を排除すれば良いと考えている。今回のプーチンによるウクライナ侵略は、その非合理性からそうとしか説明できない。
9.国際秩序を揺るがす問題
今回のロシアによるウクライナ侵略は国際社会が築き上げてきた世界の安全保障体制を根本から揺るがすものである。国連は、安全保障理事会を設け、米国、ロシア、中国、英国そしてフランスの五カ国を国際の平和の維持と回復に責任を持つ世界の警察官として常任理事国とするとともに、拒否権という特権を与えた。
今回、国際の平和と維持に一次的責任を有するロシアが侵略を行ったという事はまさしく国連の安全保障機能を根幹から揺るがす出来事である。また、核拡散防止条約は、米国、ロシア、中国、フランス、英国に核兵器の保有を認め他の国にはそれを禁じるという不平等条約であるが、それを正当化する理由として、核保有国は核の保有は、他国に核を使わせない抑止のためであるとの理由をあげてきた。今回プーチンが、核を保有していないウクライナに対して核の使用をほのめかしたことは、核拡散防止条約の存立意義を損なうほどの衝撃を与える発言である。
他方、国際刑事裁判所は、侵略犯罪、戦争犯罪、人道犯罪そしてジェノサイド(民族または宗教を理由とする虐殺)に関する個人の犯罪を裁く機関であるが、今回のプーチンの行為については、ウクライナ児童の強制移動が戦争犯罪に当たるとしてプーチンに逮捕状を発出した。国際刑事裁判所は、強制機能を有しないがとにもかくにも逮捕状を出した意義は認めて良い。
日本は自国の安全をどのように考えるべきであろうか。まずは、ロシアによる蛮行を絶対に許さないとの決意のもとG7、EU及びNATOと協力しつつできる限りのウクライナ支援を続ける必要があろう。日本の周辺を見渡せば中国は台湾の武力解放を否定しないとしており、北朝鮮は、核を保有するとともにミサイル発射を繰り返している。ロシアがウクライナにおいて行っている侵略行為と虐殺行為は、他人事ではない。これを止め、罰する事により侵略行為が高くつく事を知らせる事は、日本の周囲における同様の侵略行為の抑止になるからである。日本は、米国をはじめとするG7そしてNATOとの関係をさらに強化する重要性がある。
さらに自国の安全保障が脅かされた場合の安全保障をどのように確保するかについて真剣に考える必要がある。米国との安全保障条約があるから大丈夫とする考えは安易に過ぎよう。米国は、確かにウクライナに多額の軍事支援を行っているが、NATOがロシアと直接対峙しないとの条件付きの支援であることを忘れてはならない。日本が有事に見舞われた場合、米国は、自国の軍人が多量に犠牲となるリスクを冒してまで日本を支援するかにつき楽観的に考えない方がよい。中国の軍事力、北朝鮮の核は米国に対しても大きな損害を与える威力を有している。米国は、民主国家であり米国政府が自国民を危険に落とし入れてまで 対日支援を行うかは疑問である。日本にとって重要なことは戦争という国家の存亡に関する議論をタブー視せずに論じること、そしてロシアのウクライナ侵略は他人事ではないという事が今回のロシアのウクライナ侵略が突き付けた最大課題ではなかろうか。
執筆者プロフィール
角 茂樹(すみ しげき)
元駐ウクライナ特命全権大使、玉川大学客員教授
岩手大学客員教授、川村学園女子大学客員教授、上智大学大学院客員講師
1977年一橋大学商学部卒業、1980年オックスフォード大学卒業、1977年外務省に入省、国際機関畑が長く国連代表部政務書記官、ジュネーブ代表部人権委員会、ILOその他専門機関担当参事官、PKO室長、国際社会協力部参事官を歴任。2005年から在ウィーン国際機関代表部大使、2008年から国際連合代表部大使、2011年から駐バーレーン特命全権大使、2014年から駐ウクライナ特命全権大使を務め2019年退官。主な著書に「国際平和協力入門」(共著)(有斐閣選書1995年)、「1990年代はじめの国連と日本」(国連ジャーナル2006年秋号)、「日本のPKO参加の黎明期(小和田判事退官記念論文集 信山社 2021年)、「オデッサ領事館異聞」(神戸学院経済学論集2021年)、「ウクライナ侵攻とロシア正教会」(河出夢新書 2022年)。