「経済安全保障」の要請と陥穽(かんせい)
掲載日:2023年5月1日
国際大学大学院 国際関係学研究科 特任教授
田所 昌幸
経済安全保障という言葉が、頻繁に使われるようになっている。2021年には経済安全保障担当大臣が置かれ、昨年2022年には経済安全保障推進法が成立した。しかしこの言葉を改めて考えてみるとなかなか意味がはっきりしない。経済安全保障推進法も、「経済活動に関して行われる国家及び国民の安全を害する行為を未然に防止する」重要性が増していると指摘するが、経済安全保障の概念そのものに明示的な定義を下してはいない。そもそも安全保障ということば自体も相当多義的に使われてきたが、外部からの「脅威」から自国民の生命や財産などの重要な価値を「対象」に何らかの「手段」で守ること、と捉えれば無難だろう。よって「脅威」「対象」「手段」に何かしら経済的な要素があれば、経済安全保障と呼ばれてきた。問題はこれではあまりに広大な領域をカバーすることになり、何をすれば経済安全保障に役立つのかハッキリしないことである。にもかかわらず、今改めてしきりに経済安全保障が語られているのには、経済絡みの安全保障問題が現実に深刻化しているからだ。
戦後の日本人は、エネルギーや食料などはカネを出せばいくらでも買え、良い製品を作れば外国市場で自由に売れるのが当然だという世界観に安住してきた。しかしこれは当たり前に享受できる環境ではない。多数の主権国家がそれぞれの軍事力を持って併存している国際社会では、歴史的には海洋の航行が敵対的な国家や海賊によって阻まれたり、海外市場が政治的・経済的な理由で閉ざされたり、諸外国で自国製品が差別されたりしたことは珍しいことではないし、むしろそういう時代の方が長かったと見てよいだろう。
そもそも経済の世界と安全保障の世界が赤い線で明白に区別されているはずがないにもかかわらず、戦後の日本人が軍事や安全保障といった一見物騒な世界を意識せずにすんできたのは、アメリカが提供してきた広域的な秩序(これをアメリカ帝国、覇権的秩序、リベラルな国際秩序と呼んでもよい)の中で生きてきたからに他ならない。国際貿易が海賊や他国の軍事的威圧を心配せずに可能だったのは、おおむね卓越したアメリカの海軍力に依っていたからであり、また国際貿易にせよ国際金融にせよ、GATTやIMFなどの国際機関を創設してルールを形成し、その維持にアメリカが主導的な役割を果たしてきたからだ。ヨーロッパ諸国にも日本にもアメリカに対する従属的立場から生ずる様々な不満があったし、とりわけアメリカとの経済摩擦では時に無理難題を突きつけられたという思いもないわけでもないが、アメリカとの経済紛争は、基本的に軍事対立のあり得ない同盟国間の政治問題であった。そのため貿易摩擦がいかに険悪化し、「経済戦争」と呼ばれることがあったにしても、これを安全保障問題と呼ぶのはせいぜい比喩に過ぎなかった。
揺らぐ国際政治経済秩序
しかし今こうした国際政治経済秩序が大いに揺らいでいる。まずアメリカ自身が戦後果たしてきた役割を果たし続ける能力と意思があるのかに疑問符がつく。「アメリカ第一」を声高に叫んで当選したドナルド・トランプ前大統領は、いち早くTPPから離脱し、WTO協定に違反する関税を一方的に導入し、NATOなどの同盟は時代遅れだと放言することで、アメリカ自身が築き上げてきた戦後世界の基本的制度を次々に弱体化させた。その後バイデン政権下で相当な巻き返しが図られてきたが、TPPへの復帰を議会が承認する見込みは当面ないし、WTOの紛争処理手続きもアメリカが上級委員会の委員の任命を拒んでいることから、機能不全に陥っている。またドナルド・トランプ自身の政権復帰がないとしても、彼を生んだアメリカ政治の条件そのものは急に消えて無くなりそうはない。そうであれば、アメリカが率先して自国市場を開放し、グローバルな市場経済秩序を再び主導するかどうかも不確実と覚悟せねばなるまい。
他方で過去30年間めざましい興隆を遂げた中国は、戦後の国際秩序に対抗する姿勢を強めてきている。冷戦終結後、中国やロシアは市場経済化によって戦後の国際的規範を共有することが期待され、世界が一つの規範や制度で覆われる所謂グローバル化が世界の潮流としきりに語られたものだった。だがこういった期待は裏切られたという見方が、欧米でも日本でも今では一般的になっている。むしろ一帯一路やアジアインフラ投資銀行(AIIB)といった新たな制度構築を通じて、既存の秩序に対抗する行動が顕著になっているだけではなく、軍事的にもその行動がますます攻撃性を強めてきている。2022年に勃発したロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、大国間の軍事対立はもはや起こらないという楽観論にとどめを刺し、中国がロシアを支持する行動をとってきたため、今や中ロ対西側諸国というかつての東西冷戦を彷彿とさせる対立構図が再び浮かび上がっている。
しかし当時の東西冷戦期と決定的に違う点がある。それは中ロとも冷戦後の過去30年間に、世界市場にしっかりと組み込まれ、とりわけ中国は経済規模でアメリカに追いつかんばかりの巨大な経済力を誇る強力なプレーヤーとなっていることだ。ただそういった経済的相互依存によって出現したのは、期待されたような平和な国際秩序ではなく、経済的相互依存を伴った戦略的対立関係だったのである。
このような歴史の基本的条件下では、日本人が平和的と思い込んできた経済関係も武器化されていくことが避けられない。しかも日本が身を置いている西側陣営は、今や冷戦期のように経済的に圧倒的に優勢というわけではなく、経済的手段による威嚇や強圧から防戦を真剣に考えなければならない立場にある。
例えばロシアのウクライナ侵攻に対しては、西側諸国による大規模なロシアへの経済制裁が実行された。これによってロシアには確実に経済的損害が生じているだろうが、ロシアのエネルギー輸出にはヨーロッパも依存している。そのためむしろロシア側による供給制限によってヨーロッパでは2022-23年の冬を越せるかどうかが大いに懸念されたほどであった。また2010年に日本の巡視船に体当たりをした中国漁船の船長を海上保安庁が逮捕した際には、中国がレアアースやレアメタルを日本に禁輸するとともに、中国に進出していた日本企業も当局公認の反日暴動による被害を受けることとなった。今や経済的に強大化した中国は、法による抑制や国内政治上の民主的制約がないこともあって、経済を威嚇や圧力の手段として機動的に用いることができる。懸念されている台湾有事でも、もしそれが現実のものとなれば軍事と経済は確実に一体化して運用されるだろう。巨大な経済力を持ちサプライチェーンの重要な一翼を担っている中国による経済的攻撃は、エネルギー資源と武器以外めぼしい輸出産業のないロシアとは比べものにならないほど甚大な影響を世界経済に及ぼすことは確実である。
またグローバルサウスと呼ばれる諸国の立場も、冷戦期とは様変わりしていることに注意が必要だ。アジア・アフリカといえば長らく貧困と混乱の代名詞であり、メディアが注目するのも内戦や災害が起こったときがほとんどであった。しかし過去30年間、日本の停滞ぶりとは対照的にグローバル化の波に上手く乗って、順調に経済的発展を遂げてきた国も少なくない。これらの国々はもはや国際政治の無力な傍観者ではなく、自らの国益をそれぞれの方法で実現しようとする主体となっている。また西側諸国による対ロ経済制裁に冷淡な国が多いことも印象的だ。これはグローバルサウスにとって、環境、人権、ジェンダーなど何かと注文の多い西側諸国だけが経済的パートナーというわけではなく、中国が提供する様々な経済的利益や開発モデルも魅力的な代替案になっていることが関係しているとみるべきだ。
日本の選択
経済的相互依存が自国と敵対的な勢力によって武器として利用される可能性に対して、われわれは何をすべきなのか。まず供給途絶があるかもしれないから何でも国内で生産して自給自足をしようといった早計な選択は、日本にはあり得ない。少子化が毎日のように語られる日本だが、それでも現在の日本の人口は自給自足状態だった幕末に比べて3~4倍以上、深刻な飢えが切実な問題だった終戦後の1.5倍以上の水準だ。またよしんば首尾良く鎖国ができたとしても、経済的・技術的にイノベーションで立ち後れれば、安全保障上もマイナスなのは、たった4隻の黒船になすすべもなかった幕末当時のことを思い出せば十分だろう。経済安全保障という伸縮性に富んだ概念が拡張されて一人歩きすると、それに便乗してそもそも市場経済にはつきもののリスクまで、公的な保護や補助によって埋め合わせようとする動きに便乗されかねない危険があることには注意が必要である。
問われるべきは、一方で国際分業や市場での競争を最大限利用しつつ、他方で経済的圧迫に対する日本の強靭化をどのようにして図るのかという問題である。経済安全保障推進法は、中国を念頭に特定重要物資を指定し、その備蓄やサプライチェーンの強靱化に政府が積極的に関与すること、また基幹インフラを保護し、先端技術の開発を支援するなどといった方策に重点をおいている。これはともかく最初に手をつけるべき施策としては適切だと考えられる。
しかし刻々と変化する情勢の下で、対応を迫られる脆弱性は、サプライチェーンの脆弱性に限られるものではない。中国は輸入を制限したり自国民の旅行ビザを制限したりして、自国の購買力を操作することが容易に出来る。また、進出した海外企業に様々な方法で不利益を与えたり、恫喝することもできるだろう。脅威の内容は多様かつ微妙であり、迅速で柔軟なリスク管理が常に欠かせない。いずれにせよ経済の担い手の主役は民間企業である以上、それぞれの企業がより強い安全保障マインドを持って、地政学リスクを分析し、可能な限りの対策を実施していくほかあるまい。民間企業も、地政学リスクの管理は政治任せで商売だけは自由にできるようにと望むことはないものねだりであることを自覚しなくてはならない。関連情報の収集や分析にこれまで以上の資源を割くことに加えて、官民に加えて様々な分野の専門家との情報共有や意見交換などに、一層注力して経営判断をすることが必要だ。またリスク管理の需要が高まれば、リスク管理サービス自身が一つの収益機会にもなり得ることも付け加えたい。
官民協力や業界内協力は、日米貿易摩擦の高まった80年代末から90年代始めにかけては、アメリカから不公正貿易としきりに批判された。確かに競争を阻害する慣行や責任の不明確性、官民の癒着など問題とすべき点はあった。しかし経済安全保障といった長期的で公共性の強い利益を実現するためには、市場頼みではおよそ現実的ではないし、今や他ならぬアメリカが産官学を巻き込んだ大々的な産業政策を推進している時にあって、日本も産官学で協力のネットワークをさらに強化すべき時に来ているのではないだろうか。
これについては、1970年代の石油危機の際の経験が参考になるだろう。1960年代の高度成長を支えた石油供給の不安定化と価格の急上昇という危機を前に、強い危機感が官民で共有された。その結果、石油価格の上昇を容認しつつ、一方では政府の石油備蓄や供給源の多様化さらには西側の石油融通枠組みの強化などの様々な施策が講じられ、民間では常軌を逸するほどの省エネ投資が行われ、気がついてみると、1980年代には日本経済は経済的脅威と見なされるほどの力強い再生を遂げていたのである。
経済安全保障というと、脅威に対する受動的な対応を連想しがちだが、いかなる新たな問題も、それを奇貨として思い切った発想の転換とイノベーションに結びつけることができれば、ともすれば消極的になりがちな日本経済にとって、禍転じて福となすチャンスにもできるのではないか。
執筆者プロフィール
田所 昌幸(たどころ まさゆき)
国際大学大学院 国際関係学研究科 特任教授
1981年、京都大学法学部卒業。1981 - 83年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス留学。1984年、京都大学大学院法学研究科博士課程中退。1984年 - 87年、京都大学1987 - 97年、姫路獨協大学法学部助教授、教授。1997‐ 2002年、防衛大学校社会科学教室教授、2002年4月 - 2022年3月慶應義塾大学法学部教授などを経て、22年4月より現職。その間、ピッツバーグ大学ジョーンズタウン校客員教授(1991年)、ニューヨーク市立大学ラルフバンチ国連研究所客員研究員(1993 - 94年)、ウォーター大学客員研究員(2016 - 17年)。博士(法学)。専門は国際政治学。著書に、『「アメリカ」を超えたドル』(サントリー学賞受賞、中央公論新社、2001年)、『越境の国際政治 国境を越える人々と国家間関係』(有斐閣、2018年)、共著・編著に『素顔の現代インド』(慶應大学出版会、2021年)など。
国際大学大学院 国際関係学研究科 特任教授
田所 昌幸
経済安全保障という言葉が、頻繁に使われるようになっている。2021年には経済安全保障担当大臣が置かれ、昨年2022年には経済安全保障推進法が成立した。しかしこの言葉を改めて考えてみるとなかなか意味がはっきりしない。経済安全保障推進法も、「経済活動に関して行われる国家及び国民の安全を害する行為を未然に防止する」重要性が増していると指摘するが、経済安全保障の概念そのものに明示的な定義を下してはいない。そもそも安全保障ということば自体も相当多義的に使われてきたが、外部からの「脅威」から自国民の生命や財産などの重要な価値を「対象」に何らかの「手段」で守ること、と捉えれば無難だろう。よって「脅威」「対象」「手段」に何かしら経済的な要素があれば、経済安全保障と呼ばれてきた。問題はこれではあまりに広大な領域をカバーすることになり、何をすれば経済安全保障に役立つのかハッキリしないことである。にもかかわらず、今改めてしきりに経済安全保障が語られているのには、経済絡みの安全保障問題が現実に深刻化しているからだ。
戦後の日本人は、エネルギーや食料などはカネを出せばいくらでも買え、良い製品を作れば外国市場で自由に売れるのが当然だという世界観に安住してきた。しかしこれは当たり前に享受できる環境ではない。多数の主権国家がそれぞれの軍事力を持って併存している国際社会では、歴史的には海洋の航行が敵対的な国家や海賊によって阻まれたり、海外市場が政治的・経済的な理由で閉ざされたり、諸外国で自国製品が差別されたりしたことは珍しいことではないし、むしろそういう時代の方が長かったと見てよいだろう。
そもそも経済の世界と安全保障の世界が赤い線で明白に区別されているはずがないにもかかわらず、戦後の日本人が軍事や安全保障といった一見物騒な世界を意識せずにすんできたのは、アメリカが提供してきた広域的な秩序(これをアメリカ帝国、覇権的秩序、リベラルな国際秩序と呼んでもよい)の中で生きてきたからに他ならない。国際貿易が海賊や他国の軍事的威圧を心配せずに可能だったのは、おおむね卓越したアメリカの海軍力に依っていたからであり、また国際貿易にせよ国際金融にせよ、GATTやIMFなどの国際機関を創設してルールを形成し、その維持にアメリカが主導的な役割を果たしてきたからだ。ヨーロッパ諸国にも日本にもアメリカに対する従属的立場から生ずる様々な不満があったし、とりわけアメリカとの経済摩擦では時に無理難題を突きつけられたという思いもないわけでもないが、アメリカとの経済紛争は、基本的に軍事対立のあり得ない同盟国間の政治問題であった。そのため貿易摩擦がいかに険悪化し、「経済戦争」と呼ばれることがあったにしても、これを安全保障問題と呼ぶのはせいぜい比喩に過ぎなかった。
揺らぐ国際政治経済秩序
しかし今こうした国際政治経済秩序が大いに揺らいでいる。まずアメリカ自身が戦後果たしてきた役割を果たし続ける能力と意思があるのかに疑問符がつく。「アメリカ第一」を声高に叫んで当選したドナルド・トランプ前大統領は、いち早くTPPから離脱し、WTO協定に違反する関税を一方的に導入し、NATOなどの同盟は時代遅れだと放言することで、アメリカ自身が築き上げてきた戦後世界の基本的制度を次々に弱体化させた。その後バイデン政権下で相当な巻き返しが図られてきたが、TPPへの復帰を議会が承認する見込みは当面ないし、WTOの紛争処理手続きもアメリカが上級委員会の委員の任命を拒んでいることから、機能不全に陥っている。またドナルド・トランプ自身の政権復帰がないとしても、彼を生んだアメリカ政治の条件そのものは急に消えて無くなりそうはない。そうであれば、アメリカが率先して自国市場を開放し、グローバルな市場経済秩序を再び主導するかどうかも不確実と覚悟せねばなるまい。
他方で過去30年間めざましい興隆を遂げた中国は、戦後の国際秩序に対抗する姿勢を強めてきている。冷戦終結後、中国やロシアは市場経済化によって戦後の国際的規範を共有することが期待され、世界が一つの規範や制度で覆われる所謂グローバル化が世界の潮流としきりに語られたものだった。だがこういった期待は裏切られたという見方が、欧米でも日本でも今では一般的になっている。むしろ一帯一路やアジアインフラ投資銀行(AIIB)といった新たな制度構築を通じて、既存の秩序に対抗する行動が顕著になっているだけではなく、軍事的にもその行動がますます攻撃性を強めてきている。2022年に勃発したロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、大国間の軍事対立はもはや起こらないという楽観論にとどめを刺し、中国がロシアを支持する行動をとってきたため、今や中ロ対西側諸国というかつての東西冷戦を彷彿とさせる対立構図が再び浮かび上がっている。
しかし当時の東西冷戦期と決定的に違う点がある。それは中ロとも冷戦後の過去30年間に、世界市場にしっかりと組み込まれ、とりわけ中国は経済規模でアメリカに追いつかんばかりの巨大な経済力を誇る強力なプレーヤーとなっていることだ。ただそういった経済的相互依存によって出現したのは、期待されたような平和な国際秩序ではなく、経済的相互依存を伴った戦略的対立関係だったのである。
このような歴史の基本的条件下では、日本人が平和的と思い込んできた経済関係も武器化されていくことが避けられない。しかも日本が身を置いている西側陣営は、今や冷戦期のように経済的に圧倒的に優勢というわけではなく、経済的手段による威嚇や強圧から防戦を真剣に考えなければならない立場にある。
例えばロシアのウクライナ侵攻に対しては、西側諸国による大規模なロシアへの経済制裁が実行された。これによってロシアには確実に経済的損害が生じているだろうが、ロシアのエネルギー輸出にはヨーロッパも依存している。そのためむしろロシア側による供給制限によってヨーロッパでは2022-23年の冬を越せるかどうかが大いに懸念されたほどであった。また2010年に日本の巡視船に体当たりをした中国漁船の船長を海上保安庁が逮捕した際には、中国がレアアースやレアメタルを日本に禁輸するとともに、中国に進出していた日本企業も当局公認の反日暴動による被害を受けることとなった。今や経済的に強大化した中国は、法による抑制や国内政治上の民主的制約がないこともあって、経済を威嚇や圧力の手段として機動的に用いることができる。懸念されている台湾有事でも、もしそれが現実のものとなれば軍事と経済は確実に一体化して運用されるだろう。巨大な経済力を持ちサプライチェーンの重要な一翼を担っている中国による経済的攻撃は、エネルギー資源と武器以外めぼしい輸出産業のないロシアとは比べものにならないほど甚大な影響を世界経済に及ぼすことは確実である。
またグローバルサウスと呼ばれる諸国の立場も、冷戦期とは様変わりしていることに注意が必要だ。アジア・アフリカといえば長らく貧困と混乱の代名詞であり、メディアが注目するのも内戦や災害が起こったときがほとんどであった。しかし過去30年間、日本の停滞ぶりとは対照的にグローバル化の波に上手く乗って、順調に経済的発展を遂げてきた国も少なくない。これらの国々はもはや国際政治の無力な傍観者ではなく、自らの国益をそれぞれの方法で実現しようとする主体となっている。また西側諸国による対ロ経済制裁に冷淡な国が多いことも印象的だ。これはグローバルサウスにとって、環境、人権、ジェンダーなど何かと注文の多い西側諸国だけが経済的パートナーというわけではなく、中国が提供する様々な経済的利益や開発モデルも魅力的な代替案になっていることが関係しているとみるべきだ。
日本の選択
経済的相互依存が自国と敵対的な勢力によって武器として利用される可能性に対して、われわれは何をすべきなのか。まず供給途絶があるかもしれないから何でも国内で生産して自給自足をしようといった早計な選択は、日本にはあり得ない。少子化が毎日のように語られる日本だが、それでも現在の日本の人口は自給自足状態だった幕末に比べて3~4倍以上、深刻な飢えが切実な問題だった終戦後の1.5倍以上の水準だ。またよしんば首尾良く鎖国ができたとしても、経済的・技術的にイノベーションで立ち後れれば、安全保障上もマイナスなのは、たった4隻の黒船になすすべもなかった幕末当時のことを思い出せば十分だろう。経済安全保障という伸縮性に富んだ概念が拡張されて一人歩きすると、それに便乗してそもそも市場経済にはつきもののリスクまで、公的な保護や補助によって埋め合わせようとする動きに便乗されかねない危険があることには注意が必要である。
問われるべきは、一方で国際分業や市場での競争を最大限利用しつつ、他方で経済的圧迫に対する日本の強靭化をどのようにして図るのかという問題である。経済安全保障推進法は、中国を念頭に特定重要物資を指定し、その備蓄やサプライチェーンの強靱化に政府が積極的に関与すること、また基幹インフラを保護し、先端技術の開発を支援するなどといった方策に重点をおいている。これはともかく最初に手をつけるべき施策としては適切だと考えられる。
しかし刻々と変化する情勢の下で、対応を迫られる脆弱性は、サプライチェーンの脆弱性に限られるものではない。中国は輸入を制限したり自国民の旅行ビザを制限したりして、自国の購買力を操作することが容易に出来る。また、進出した海外企業に様々な方法で不利益を与えたり、恫喝することもできるだろう。脅威の内容は多様かつ微妙であり、迅速で柔軟なリスク管理が常に欠かせない。いずれにせよ経済の担い手の主役は民間企業である以上、それぞれの企業がより強い安全保障マインドを持って、地政学リスクを分析し、可能な限りの対策を実施していくほかあるまい。民間企業も、地政学リスクの管理は政治任せで商売だけは自由にできるようにと望むことはないものねだりであることを自覚しなくてはならない。関連情報の収集や分析にこれまで以上の資源を割くことに加えて、官民に加えて様々な分野の専門家との情報共有や意見交換などに、一層注力して経営判断をすることが必要だ。またリスク管理の需要が高まれば、リスク管理サービス自身が一つの収益機会にもなり得ることも付け加えたい。
官民協力や業界内協力は、日米貿易摩擦の高まった80年代末から90年代始めにかけては、アメリカから不公正貿易としきりに批判された。確かに競争を阻害する慣行や責任の不明確性、官民の癒着など問題とすべき点はあった。しかし経済安全保障といった長期的で公共性の強い利益を実現するためには、市場頼みではおよそ現実的ではないし、今や他ならぬアメリカが産官学を巻き込んだ大々的な産業政策を推進している時にあって、日本も産官学で協力のネットワークをさらに強化すべき時に来ているのではないだろうか。
これについては、1970年代の石油危機の際の経験が参考になるだろう。1960年代の高度成長を支えた石油供給の不安定化と価格の急上昇という危機を前に、強い危機感が官民で共有された。その結果、石油価格の上昇を容認しつつ、一方では政府の石油備蓄や供給源の多様化さらには西側の石油融通枠組みの強化などの様々な施策が講じられ、民間では常軌を逸するほどの省エネ投資が行われ、気がついてみると、1980年代には日本経済は経済的脅威と見なされるほどの力強い再生を遂げていたのである。
経済安全保障というと、脅威に対する受動的な対応を連想しがちだが、いかなる新たな問題も、それを奇貨として思い切った発想の転換とイノベーションに結びつけることができれば、ともすれば消極的になりがちな日本経済にとって、禍転じて福となすチャンスにもできるのではないか。
執筆者プロフィール
田所 昌幸(たどころ まさゆき)
国際大学大学院 国際関係学研究科 特任教授
1981年、京都大学法学部卒業。1981 - 83年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス留学。1984年、京都大学大学院法学研究科博士課程中退。1984年 - 87年、京都大学1987 - 97年、姫路獨協大学法学部助教授、教授。1997‐ 2002年、防衛大学校社会科学教室教授、2002年4月 - 2022年3月慶應義塾大学法学部教授などを経て、22年4月より現職。その間、ピッツバーグ大学ジョーンズタウン校客員教授(1991年)、ニューヨーク市立大学ラルフバンチ国連研究所客員研究員(1993 - 94年)、ウォーター大学客員研究員(2016 - 17年)。博士(法学)。専門は国際政治学。著書に、『「アメリカ」を超えたドル』(サントリー学賞受賞、中央公論新社、2001年)、『越境の国際政治 国境を越える人々と国家間関係』(有斐閣、2018年)、共著・編著に『素顔の現代インド』(慶應大学出版会、2021年)など。