(3) モデルナとバイオンテック
掲載日:2021年5月26日
放送大学 名誉教授
高橋 和夫
幸運な鷹
2021年の始まりを敗北感で迎えた。なぜならば、新型コロナウイルス対策の切り札と見なされていたワクチンが、この時期に世界で出回り始めたにもかかわらず、日本製のワクチンの姿がどこにもなかったからだ。春になっても、その思いは深まるばかりである。米国やヨーロッパ、そしてロシアや中国などで、ワクチンが開発され、製造され、接種され、そして輸出されている。ところが日本はワクチンの開発では、はるかに遅れてしまった。未だに日本製のワクチンは存在しない。日本は先進工業諸国の中でトップグループを走るハイテク国家ではなかったのか。そうした幻想を打ち砕く現実である。ワクチンの開発、製造、接種など、どの面を見ても日本は先進工業諸国の間では最後尾の方である。オリンピックなら予選落ちという状況ではないだろうか。
日本が予選落ちならば、それでは表彰台に昇れそうなのは、どこだろうか。どの企業だろうか。恐らく米国のファイザー社やモデルナ社だろう。両社は、他に先駆けてワクチンを開発し欧米で早期に認可を得た。ここでは、この両社にについて論じたい。
まず効果が95パーセントとされるファイザーのワクチンの話から始めよう。このファイザーのワクチンを実際に開発したのは、同社と提携しているドイツに拠点を置く企業のバイオンテック社である。同社の経営者のウール・シャヒンの言葉が力強い。「私は、ワクチンがコロナウイルスのパンデミックを終わらせることができると確信しています」と述べている。ウールは幸運という意味で、シャヒンはペルシア語からトルコ語に入った言葉で鷹という意味である。
さて、このバイオンテック社のCEOのウール・シャヒン博士は、昨年1月に中国の武漢で新型コロナウイルスが広がっているとの情報に触れると、これがパンデミック、つまり全世界的な大流行になる可能性を直観した。そして、即座に他の研究を停止して、ワクチンの開発に全社をあげて取り組む決断を下した。幸いにも、新型コロナウイルスの遺伝子情報が1月11日にはネット上にアップされた。この情報をもとに、バイオンテック社は1年とたたないうちにワクチン開発を成功させ、米英を始め各国で認可を獲得した。これまでは、ワクチンの開発に何年もかかるとされていただけに、異例のスピードだ。短期間での開発を可能にしたのは、遺伝物質「メッセンジャーRNA(mRNA)」を活用する新たな手法である。
バイオンテック社は、シャヒン博士と妻で免疫学者のオズレム・トゥルジェリが始めた企業である。これまではガン治療薬の開発を行っていた。CEOのシャヒン博士は55歳で、トルコ系である。父親はトルコからドイツに出稼ぎに来てドイツのフォード社の工場で自動車の組立工として働いていた。シャヒンは、ドイツのケルン大学で医学博士号を取得した後、ザールランド大学の付属病院で医者として勤務し、その後にマインツ大学の教授になっている。妻も同じくトルコ系である。
昨年末のクリスマスの直前の時期にワクチンがEU(欧州連合)での認可を得たというタイミングを踏まえて、トルコのメディアは、この新しいワクチンを「トルコ人」からの人類へのクリスマス・プレゼントと表現している。トルコの外務大臣が夫妻に電話をするなど、トルコでは大きな話題である。ワクチンは、トルコ系移民のがんばりの成果である。この夫妻の研究熱心は伝説的である。結婚式の日も式の後に実験室も戻ったと伝えられている。時事通信は、この二人の会社のバイオンテックについて、これまで国際的に無名であったと述べている。
もちろん、無名というのは、それは一般の人々の間での話で、専門家筋はバイオンテックに熱い視線を注いできた。既に言及した同社のmRNA技術に注目していた。それゆえマイクロソフト社の創業者のビル・ゲイツ夫妻(当時)の財団とかシンガポールの政府系ファンドなどが既に同社に投資していた。ファイザー社もバイオンテック社の技術に着目し、2020年3月に同社と提携関係に入っていた。ちなみにファイザー社のCEOのアルバート・ブーラもギリシア系の移民である。地中海に面した港町テッサロニケ出身のユダヤ教徒である。
このバイオンテックのmRNA技術を語る上で重要な人物が、もう一人いる。カタリン・カリコである。かつて共産主義国家であったハンガリーからアメリカに亡命した女性研究者である。娘を連れてハンガリー国を離れる際にお金を子供の熊のぬいぐるみに隠して出国したというエピソードが伝えられている。ペンシルバニア大学でmRNAの研究を進めたパイオニアの1人である。バイオンテック社の立ち上げに参加している。ノーベル賞候補として既に名前の挙がっている人物でもある。
ジェノサイドの子孫
ワクチン開発競争でバイオンテック社などと共に先頭集団を走っているのが米国のモデルナ社である。マサチューセッツ州のケンブリッジに本社を置いている。ハーバード大学で知られる町である。
さてモデルナのワクチンは94パーセントの効果が期待できるという。2020年12月にバイオンテック社のワクチンと同時期に米国で認可を受けた。このモデルナのワクチンも、バイオンテック社と同じくmRNAという技術を利用している。この会社もワクチン開発に注力する決断が早かった。新型コロナウイルスの遺伝子情報を確保した48時間後には、同社の研究陣がワクチンを「デザイン」した。つまり、どのようなワクチンを開発するか決定した。
モデルナのCEOも外国生まれだ。フランス出身のステファン・バンセルである。しかも、この企業の創立者の1人で、現在は会長を務めているヌーバール・アフェヤーンは、レバノンの首都のベイルート生まれである。同国の内戦を逃れて、まずカナダに移住し、ケベック州の州都のモントリオールにある名門のマギル大学でケミカル・エンジニアリング(化学工学)を学んでいる。ケベック州に移民したのは、同州はフランス語圏でありフランス語話者を優先的に移民として受け入れているからだろう。レバノンは、かつてはフランスの支配下にあり、同国のエリート層の多くがアラビア語、フランス語、英語の3か国語に堪能である。かつて日産の経営トップであったカルロス・ゴーンのようにである。
アフェヤーンは、その後にカナダから遠くない米国のボストンにあるMIT(マサチューセッツ工科大学)で博士号を取得している。現在は米国市民である。したがってレバノン系米国人になる。もっと詳しく書くとアルメニア系レバノン系米国人である。というのは、もともと祖先は現在のトルコ東部からレバノンに移住している。アフェヤーンは、その子孫である。このモデルナには多くのレバノン系の人々が、特にアフェヤーンのようなレバノン系アルメニア人が、働いている。
この二つの例が示しているのは、移民の頑張りが社会を動かすエネルギーになるという事実である。他の社会から新たな社会へ移り住んだ人々は、生活の安定を求めて、ガムシャラに働く傾向が強い。このガムシャラが成功をもたらす。他に例を求めるとグーグルやアップルなども、移民の一世や二世たちが立ち上げた企業である。バイオンテック社もモデルナ社も、そうした移民ガムシャラ成功物語の例だ。
また移民は、受け入れ社会ではなかった発想とか見方をもたらす。また、これまで当然視されていたものに疑問をぶつけ変えて行く例もある。バイオンテック社の創業者のシャヒン氏によれば、ドイツの大学は研究のための研究に軸足を置いており、研究の成果を社会に必ずしも十分に還元してこなかった。それゆえ同氏は、ある段階で大学を離れ企業を立ち上げたという。もしシャヒンが多数派の普通のドイツ人だったら、企業を興そうとはしなかったかもしれない。移民系ゆえに研究者が、大企業に就職するとか大学に残るという安全なルートを選ばずに、自らの企業を起こすという米国的な発想と決断にたどり着いたのだろうか。
移民系の人々の企業と言う以外にバイオンテックとモデルナの両社に共通している点が、もう一つある。両社ともベンチャー企業である。最近もっと頻繁に目にする表現を借りるならばスタートアップである。バイオンテックは、2008年の創業である。モデルナは、2010年だ。もっと詳しく書くと、2000年に創業のフラッグシップ・パイオニアリングというベンチャー企業に出資するベンチャー企業からの出資でモデルナは設立された。このフラッグシップ・パイオニアリングを創業し会長を務めているのが、実はモデルナの会長でもあるアフェヤーンだ。モデルナは同社が出資した40にも上るスタートアップ企業の中の一社である。
スタートアップとかベンチャーとかを始めるというのは、まさにゼロからの出発というケースが大半である。移民は、ゼロからのスタートを既に経験した人々である。起業に対して抵抗感が少ないのだろうか。アフェヤーンのようなアルメニア系レバノン系米国人の場合は、二重にそうである。
アルメニアからレバノンに移住した際に一族はゼロから再出発している。そしてカナダに、最後に米国に移住して、またゼロからの出発を繰り返したわけだ。DNAに起業精神が組み込まれているかのようである。アフェヤーンが最初に起業したのは24歳の時だった。
2021年は、二つの理由でアルメニア人にとっては特別な年として歴史に記憶されるだろう。ひとつは、モデルナのワクチンが本格的に使われ、人類と新型コロナウイルスとの闘いで大きな役割を果たし始めた年としてである。二つめは、米国のジョー・バイデン大統領が4月末に第一次世界大戦期の1915年から17年にかけて現在のトルコ東部で150万人のアルメニア人がジェノサイドの犠牲になったと公式に認定した年としてである。バイデン大統領は、公式表明の中で「オスマン帝国時代のアルメニア人ジェノサイドで失われたすべての命を忘れない」と述べ、そして居住地を追われ米国など全世界へ渡りコミュニティを復興したアルメニア人への敬意を示し、さらに「誰かを責めるためではなく、こうした出来事が繰り返されないことを確かなものにするため、痛みを直視し、歴史を認識する」と述べた。
在米の百万人ともいわれるアルメニア系市民は、米政府によるアルメニア人虐殺のジェノサイドとしての認定を求めて来た。議会は既に2年前の2019年に上下両院ともにアルメニア系市民の意向に添った決議を採択している。しかし大統領は、トルコとの関係への配慮もあって、これまでジェノサイドとは認定してこなかった。モデルナのアフェヤーン会長の祖母は、この虐殺を逃れレバノンへと移民している。ファイザーの会長がユダヤ系であり、モデルナの会長はアルメニア系である。アルメニア人といいユダヤ人といい、それぞれ第一次世界大戦期と第二次世界大戦期に共にある意味では地獄を見た人々である。
さて医薬品業界に詳しい方によると、大手製薬会社が新しい薬を独自に開発する例は、少なくなりつつある。大半の新薬はベンチャー企業が開発し、それを提携している大企業が臨床(治験)、生産、販売するというパターンだという。スタートアップ企業が戦い。大企業が兵站を支えるという構図だ。バイオンテックとファイザーの提携は典型例だ。急成長したとはいえバイオンテックの従業員数は、いまだ1,300名程度であり、年間の売り上げが4兆円を超えるファイザーの比ではない。
最後に最初の疑問に戻ろう。なぜ日本ではワクチンの開発が遅れたのだろうか。なぜバイオンテックもモデルナも出てこなかったのだろうか。おそらく、理由のひとつは、移民を受け入れない社会だからではないだろうか。難民対策はあっても移民政策が存在しない国に外国から優秀な人材が多数流入し定住するはずはない。またスタートアップを奨励する文化を育ててこなかった社会で、ベンチャーが繁栄するはずもない。
ワクチンを受ける際には是非とも思い起こしていただきたい。トルコ系、アルメニア系、ユダヤ系、ハンガリー系などの移民系の人々が起こしたベンチャー企業の頑張りが、人類を新型コロナウイルスから救おうとしているのだと。そして、さらに思いを馳せていただきたい。日本社会も移民という形の新たな血を必要としているのではないかと。
執筆者プロフィール
高橋 和夫(たかはし かずお)
放送大学 名誉教授
一般社団法人 先端技術安全保障研究所(GIEST)会長
福岡県北九州市生まれ。コロンビア大学国際関係論修士号を取得後、クウェート大学客員研究員、放送大学教員などを経て2018年4月より現職、専門は、国際政治・中東研究。『アラブとイスラエル』 (講談社現代新書、1992年)、『中東から世界が崩れる 』(NHK出版新書、2016年)など著書多数、最新作は『パレスチナ問題の展開』(左右社、2021年) ブログなど
放送大学 名誉教授
高橋 和夫
幸運な鷹
2021年の始まりを敗北感で迎えた。なぜならば、新型コロナウイルス対策の切り札と見なされていたワクチンが、この時期に世界で出回り始めたにもかかわらず、日本製のワクチンの姿がどこにもなかったからだ。春になっても、その思いは深まるばかりである。米国やヨーロッパ、そしてロシアや中国などで、ワクチンが開発され、製造され、接種され、そして輸出されている。ところが日本はワクチンの開発では、はるかに遅れてしまった。未だに日本製のワクチンは存在しない。日本は先進工業諸国の中でトップグループを走るハイテク国家ではなかったのか。そうした幻想を打ち砕く現実である。ワクチンの開発、製造、接種など、どの面を見ても日本は先進工業諸国の間では最後尾の方である。オリンピックなら予選落ちという状況ではないだろうか。
日本が予選落ちならば、それでは表彰台に昇れそうなのは、どこだろうか。どの企業だろうか。恐らく米国のファイザー社やモデルナ社だろう。両社は、他に先駆けてワクチンを開発し欧米で早期に認可を得た。ここでは、この両社にについて論じたい。
まず効果が95パーセントとされるファイザーのワクチンの話から始めよう。このファイザーのワクチンを実際に開発したのは、同社と提携しているドイツに拠点を置く企業のバイオンテック社である。同社の経営者のウール・シャヒンの言葉が力強い。「私は、ワクチンがコロナウイルスのパンデミックを終わらせることができると確信しています」と述べている。ウールは幸運という意味で、シャヒンはペルシア語からトルコ語に入った言葉で鷹という意味である。
さて、このバイオンテック社のCEOのウール・シャヒン博士は、昨年1月に中国の武漢で新型コロナウイルスが広がっているとの情報に触れると、これがパンデミック、つまり全世界的な大流行になる可能性を直観した。そして、即座に他の研究を停止して、ワクチンの開発に全社をあげて取り組む決断を下した。幸いにも、新型コロナウイルスの遺伝子情報が1月11日にはネット上にアップされた。この情報をもとに、バイオンテック社は1年とたたないうちにワクチン開発を成功させ、米英を始め各国で認可を獲得した。これまでは、ワクチンの開発に何年もかかるとされていただけに、異例のスピードだ。短期間での開発を可能にしたのは、遺伝物質「メッセンジャーRNA(mRNA)」を活用する新たな手法である。
バイオンテック社は、シャヒン博士と妻で免疫学者のオズレム・トゥルジェリが始めた企業である。これまではガン治療薬の開発を行っていた。CEOのシャヒン博士は55歳で、トルコ系である。父親はトルコからドイツに出稼ぎに来てドイツのフォード社の工場で自動車の組立工として働いていた。シャヒンは、ドイツのケルン大学で医学博士号を取得した後、ザールランド大学の付属病院で医者として勤務し、その後にマインツ大学の教授になっている。妻も同じくトルコ系である。
昨年末のクリスマスの直前の時期にワクチンがEU(欧州連合)での認可を得たというタイミングを踏まえて、トルコのメディアは、この新しいワクチンを「トルコ人」からの人類へのクリスマス・プレゼントと表現している。トルコの外務大臣が夫妻に電話をするなど、トルコでは大きな話題である。ワクチンは、トルコ系移民のがんばりの成果である。この夫妻の研究熱心は伝説的である。結婚式の日も式の後に実験室も戻ったと伝えられている。時事通信は、この二人の会社のバイオンテックについて、これまで国際的に無名であったと述べている。
もちろん、無名というのは、それは一般の人々の間での話で、専門家筋はバイオンテックに熱い視線を注いできた。既に言及した同社のmRNA技術に注目していた。それゆえマイクロソフト社の創業者のビル・ゲイツ夫妻(当時)の財団とかシンガポールの政府系ファンドなどが既に同社に投資していた。ファイザー社もバイオンテック社の技術に着目し、2020年3月に同社と提携関係に入っていた。ちなみにファイザー社のCEOのアルバート・ブーラもギリシア系の移民である。地中海に面した港町テッサロニケ出身のユダヤ教徒である。
このバイオンテックのmRNA技術を語る上で重要な人物が、もう一人いる。カタリン・カリコである。かつて共産主義国家であったハンガリーからアメリカに亡命した女性研究者である。娘を連れてハンガリー国を離れる際にお金を子供の熊のぬいぐるみに隠して出国したというエピソードが伝えられている。ペンシルバニア大学でmRNAの研究を進めたパイオニアの1人である。バイオンテック社の立ち上げに参加している。ノーベル賞候補として既に名前の挙がっている人物でもある。
ジェノサイドの子孫
ワクチン開発競争でバイオンテック社などと共に先頭集団を走っているのが米国のモデルナ社である。マサチューセッツ州のケンブリッジに本社を置いている。ハーバード大学で知られる町である。
さてモデルナのワクチンは94パーセントの効果が期待できるという。2020年12月にバイオンテック社のワクチンと同時期に米国で認可を受けた。このモデルナのワクチンも、バイオンテック社と同じくmRNAという技術を利用している。この会社もワクチン開発に注力する決断が早かった。新型コロナウイルスの遺伝子情報を確保した48時間後には、同社の研究陣がワクチンを「デザイン」した。つまり、どのようなワクチンを開発するか決定した。
モデルナのCEOも外国生まれだ。フランス出身のステファン・バンセルである。しかも、この企業の創立者の1人で、現在は会長を務めているヌーバール・アフェヤーンは、レバノンの首都のベイルート生まれである。同国の内戦を逃れて、まずカナダに移住し、ケベック州の州都のモントリオールにある名門のマギル大学でケミカル・エンジニアリング(化学工学)を学んでいる。ケベック州に移民したのは、同州はフランス語圏でありフランス語話者を優先的に移民として受け入れているからだろう。レバノンは、かつてはフランスの支配下にあり、同国のエリート層の多くがアラビア語、フランス語、英語の3か国語に堪能である。かつて日産の経営トップであったカルロス・ゴーンのようにである。
アフェヤーンは、その後にカナダから遠くない米国のボストンにあるMIT(マサチューセッツ工科大学)で博士号を取得している。現在は米国市民である。したがってレバノン系米国人になる。もっと詳しく書くとアルメニア系レバノン系米国人である。というのは、もともと祖先は現在のトルコ東部からレバノンに移住している。アフェヤーンは、その子孫である。このモデルナには多くのレバノン系の人々が、特にアフェヤーンのようなレバノン系アルメニア人が、働いている。
この二つの例が示しているのは、移民の頑張りが社会を動かすエネルギーになるという事実である。他の社会から新たな社会へ移り住んだ人々は、生活の安定を求めて、ガムシャラに働く傾向が強い。このガムシャラが成功をもたらす。他に例を求めるとグーグルやアップルなども、移民の一世や二世たちが立ち上げた企業である。バイオンテック社もモデルナ社も、そうした移民ガムシャラ成功物語の例だ。
また移民は、受け入れ社会ではなかった発想とか見方をもたらす。また、これまで当然視されていたものに疑問をぶつけ変えて行く例もある。バイオンテック社の創業者のシャヒン氏によれば、ドイツの大学は研究のための研究に軸足を置いており、研究の成果を社会に必ずしも十分に還元してこなかった。それゆえ同氏は、ある段階で大学を離れ企業を立ち上げたという。もしシャヒンが多数派の普通のドイツ人だったら、企業を興そうとはしなかったかもしれない。移民系ゆえに研究者が、大企業に就職するとか大学に残るという安全なルートを選ばずに、自らの企業を起こすという米国的な発想と決断にたどり着いたのだろうか。
移民系の人々の企業と言う以外にバイオンテックとモデルナの両社に共通している点が、もう一つある。両社ともベンチャー企業である。最近もっと頻繁に目にする表現を借りるならばスタートアップである。バイオンテックは、2008年の創業である。モデルナは、2010年だ。もっと詳しく書くと、2000年に創業のフラッグシップ・パイオニアリングというベンチャー企業に出資するベンチャー企業からの出資でモデルナは設立された。このフラッグシップ・パイオニアリングを創業し会長を務めているのが、実はモデルナの会長でもあるアフェヤーンだ。モデルナは同社が出資した40にも上るスタートアップ企業の中の一社である。
スタートアップとかベンチャーとかを始めるというのは、まさにゼロからの出発というケースが大半である。移民は、ゼロからのスタートを既に経験した人々である。起業に対して抵抗感が少ないのだろうか。アフェヤーンのようなアルメニア系レバノン系米国人の場合は、二重にそうである。
アルメニアからレバノンに移住した際に一族はゼロから再出発している。そしてカナダに、最後に米国に移住して、またゼロからの出発を繰り返したわけだ。DNAに起業精神が組み込まれているかのようである。アフェヤーンが最初に起業したのは24歳の時だった。
2021年は、二つの理由でアルメニア人にとっては特別な年として歴史に記憶されるだろう。ひとつは、モデルナのワクチンが本格的に使われ、人類と新型コロナウイルスとの闘いで大きな役割を果たし始めた年としてである。二つめは、米国のジョー・バイデン大統領が4月末に第一次世界大戦期の1915年から17年にかけて現在のトルコ東部で150万人のアルメニア人がジェノサイドの犠牲になったと公式に認定した年としてである。バイデン大統領は、公式表明の中で「オスマン帝国時代のアルメニア人ジェノサイドで失われたすべての命を忘れない」と述べ、そして居住地を追われ米国など全世界へ渡りコミュニティを復興したアルメニア人への敬意を示し、さらに「誰かを責めるためではなく、こうした出来事が繰り返されないことを確かなものにするため、痛みを直視し、歴史を認識する」と述べた。
在米の百万人ともいわれるアルメニア系市民は、米政府によるアルメニア人虐殺のジェノサイドとしての認定を求めて来た。議会は既に2年前の2019年に上下両院ともにアルメニア系市民の意向に添った決議を採択している。しかし大統領は、トルコとの関係への配慮もあって、これまでジェノサイドとは認定してこなかった。モデルナのアフェヤーン会長の祖母は、この虐殺を逃れレバノンへと移民している。ファイザーの会長がユダヤ系であり、モデルナの会長はアルメニア系である。アルメニア人といいユダヤ人といい、それぞれ第一次世界大戦期と第二次世界大戦期に共にある意味では地獄を見た人々である。
さて医薬品業界に詳しい方によると、大手製薬会社が新しい薬を独自に開発する例は、少なくなりつつある。大半の新薬はベンチャー企業が開発し、それを提携している大企業が臨床(治験)、生産、販売するというパターンだという。スタートアップ企業が戦い。大企業が兵站を支えるという構図だ。バイオンテックとファイザーの提携は典型例だ。急成長したとはいえバイオンテックの従業員数は、いまだ1,300名程度であり、年間の売り上げが4兆円を超えるファイザーの比ではない。
最後に最初の疑問に戻ろう。なぜ日本ではワクチンの開発が遅れたのだろうか。なぜバイオンテックもモデルナも出てこなかったのだろうか。おそらく、理由のひとつは、移民を受け入れない社会だからではないだろうか。難民対策はあっても移民政策が存在しない国に外国から優秀な人材が多数流入し定住するはずはない。またスタートアップを奨励する文化を育ててこなかった社会で、ベンチャーが繁栄するはずもない。
ワクチンを受ける際には是非とも思い起こしていただきたい。トルコ系、アルメニア系、ユダヤ系、ハンガリー系などの移民系の人々が起こしたベンチャー企業の頑張りが、人類を新型コロナウイルスから救おうとしているのだと。そして、さらに思いを馳せていただきたい。日本社会も移民という形の新たな血を必要としているのではないかと。
執筆者プロフィール
高橋 和夫(たかはし かずお)
放送大学 名誉教授
一般社団法人 先端技術安全保障研究所(GIEST)会長
福岡県北九州市生まれ。コロンビア大学国際関係論修士号を取得後、クウェート大学客員研究員、放送大学教員などを経て2018年4月より現職、専門は、国際政治・中東研究。『アラブとイスラエル』 (講談社現代新書、1992年)、『中東から世界が崩れる 』(NHK出版新書、2016年)など著書多数、最新作は『パレスチナ問題の展開』(左右社、2021年) ブログなど
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