(15) イスラエルの経験と教訓
掲載日:2020年6月16日
東洋英和女学院大学 学長
池田 明史
感染状況の現状と経緯
Covid-19 (新型コロナウイルス、以下コロナ) の世界的な感染爆発が続くなか、人口規模では9百万人強という小国イスラエルにおいても、6月半ば現在で感染者は1万8千人を超えている。この数は同時期の日本の感染者1万7千人強よりも多いが、イスラエルが日本の13分の1程度の人口比であることを考えれば、感染率は相当に高いように見える。しかし早期の段階からいわゆるPCR検査数1日1万件ペースを達成していたイスラエルと、OECD加盟国の中で最低水準といわれる日本の検査数とを比較すれば、単純に日本の感染率が低いという結論にはならない。検査をすればするほど、感染者が多く見つかっていくのは理の当然だからである。
他方で、コロナ感染による死者数は、日本の場合、6月半ばで9百人強と、相対的に低く抑えられている。感染者数が実態を反映していないとしても、死者数は明らかに少ない。イスラエルでも死者3百人程度と、周辺諸国や欧州と比較すれば有意に低い。周囲を海に囲まれた日本と異なり、アラブ諸国と陸で境を接しているうえヨルダン川西岸やガザといった占領支配地を抱え込んでいるイスラエルでは、防疫・検疫等の対応は格段に困難を伴う。それでも、同様の困難を抱える他の近隣諸国と比較すれば、イスラエルが感染爆発を阻止し、医療崩壊を防ぎ、都市封鎖を最小限に止めることができているのは明白である。
内戦や混乱の続くシリア、イラク、レバノンといった諸国の示す感染者数・死者数はまるで信用できないので、統計にそれなりの信憑性があると思われる近隣諸国の感染者・死者数を見てみると、表向きの数値ではトルコが17万人超 (死者5千人弱) 、エジプトが3万8千人超 (死者1300人超) 、イランが18万人弱 (死者9千人弱) などとなっている。また、イタリア、スペイン、フランス、ドイツなど感染爆発を起こして膨大な死者を出している欧州諸国のなかでは、9百万人弱というイスラエルと同程度の人口を抱えるオーストリアが相対的にコロナ対策に成功した事例と見られているが、感染者はイスラエルとほぼ同じ (1万7千人) であるのに対して、死者は7百人弱と倍以上になっている (数値はいずれも6月半ばの米国ジョンズ・ホプキンス大学コロナ集計ダッシュボードによる) 。
このように、国内で感染をいち早く制御下に置いたイスラエルだが、当初は感染爆発が最も危惧された国のひとつであった。昨春以来、一年間で三度にわたる総選挙が実施されても新政権が誕生せず、複数の疑獄事件の渦中にあって政治的正統性に乏しい現職のネタニヤフ首相が率いる暫定の事務管理内閣には強力な指導力を期待できなかったからである。実際、このパンデミックへの対策に先頭に立って指揮すべき保健相が、はやばやと夫婦で感染したことが発覚して隔離され、首相自身も罹患者との濃厚接触が疑われて自主隔離を始めるなど、3月後半から4月上旬にかけてはコロナ危機が深刻化した。とりわけ、4月前半にはユダヤ教催事上、年間で最大級の祝祭「ペサハ (過ぎ越し) 」にあたっていたため、政府は全土を段階的に封鎖 (ロックダウン) するに至った。
情報コミュニティの動員と活用
しかしながら、蓋を開けてみると、懸念されたパンデミックの蔓延は回避され、イスラエルは一転してコロナ対応の優等生として注目される存在になっている。その最大の功労者と考えられているのは、内閣や政党ではなく、保健省など通常の官僚機構でもなく、イスラエルにおいていわゆる情報コミュニティを構成する治安・諜報機関にほかならない。対外諜報活動を主務とする「モサド (対外特務機関) 」、国内防諜・公安に任ずる「シンベト (総保安局) 」、そして国内外の軍事情報の分析や戦略見積もりを担当する「アマン (国防軍情報局) 」がその中核である。モサドとシンベトは首相府の管轄下にあり、アマンは国防相・参謀総長の隷下に置かれている。これらの治安・諜報機関が対処すべき脅威は、各種のテロから大量破壊兵器、サイバー戦まで多岐にわたり、安全保障上喫緊の課題も多い。このため、政策決定過程で大きな方針が定められた後は、それぞれの機関には作戦上の柔軟な裁量が与えられるのが通例である。
今般のコロナ禍は、狭義の意味では国家の安全保障に直結するものとは解釈されなかったものの、市民の安全と生活の安寧を根底から脅かす事態であるとの認識が共有された結果、これらの治安・諜報機関が民生領域を支援する形で動員されることとなった。モサドはすでに2月には、保健省や医療関係者から、PCR検査キットや試薬、人工呼吸器や人工心肺装置、医療防護具、高機能マスクその他の必需品リストと最悪シナリオに備えた必要量の推計を入手し、直ちにその確保に向けた作戦を開始した。全世界に張り巡らせた情報収集・諜報工作ネットワークを稼働させ、3月下旬には国外から数十万件の検査キット、数百万枚の手術用マスク、数万枚のN-95高機能マスク、国内の医療関係者に十分いきわたるだけの防護具などが次々に搬入された。人工呼吸器や人工心肺装置などの高度医療機器は必要量の完成品を確保しただけでなく、その設計や製造にかかわる最先端技術についても併せてイスラエル国内に持ち込んでいる。
パンデミックが進むにつれて世界中で争奪戦が展開されたこれらの医療資源について、イスラエルは安全保障領域での情報収集や諜報工作に当たる特務機関のネットワークを駆使していち早く全世界からかき集めることに成功したのである。当然ながらそこには、先進諸国の最先端研究施設におけるコロナ研究の知見や実験結果といったソフト情報も含まれる。
国内に潜入したテロリストや敵性勢力のスパイ、あるいは政治的危険分子等を捕捉・監視する防諜機関であるシンベトは、高度に発達させた彼ら独自のトラッキング (接触確認・追跡) システムを、保健省から入手したPCR検査陽性反応者に適用した。主として通信会社より提供されたスマホや携帯電話など電子端末機器の記録を解析して、過去2週間に遡って、彼らが2メートル以内の距離において15分以上接触した人物をすべて割り出し、保健省や警察に通告したのである。これらの濃厚接触者はその事実を通告され、2週間の自己隔離を命じられる。警察は、彼らが隔離を順守しているかどうかを、これも電子端末機器によって常時監視する。高層住宅などでは、ドローンまで投入して対象者の所在を確認したと伝えられる。トラッキングによって感染経路をあぶり出し、濃厚接触者を隔離してパンデミックからの出口戦略を模索するという保健省公衆衛生局の方針は、シンベトの積極的な支援と協力がなければ成り立たなかったといえよう。
保健省など民生領域の官僚機構や医療機関と、より組織的な連携を強めて統合的なコロナ対策を展開したのが国防軍の情報部門を統括するアマンであった。保健省の指示によって立ち上げられたコロナ情報知識国家センター (CNIKC) がその拠点となり、国内の感染者数その他の罹患情報、国外での対応状況、薬剤の有効性やワクチンの開発情報など、新型コロナにかかわるありとあらゆる情報を収集し分析し、その結果を日常的に発信している。そこには、多数の医師や研究者、技術者と並んで数百名規模のアマン要員が投入され、センター長もアマンからの軍人が充てられている。情報中枢機能を担うと同時に、アマンは軍の技術開発部門と保健省や国内各大学・研究機関など民生領域とを結ぶコーディネーター的な役割を果たし、検査方法や人工呼吸器の改善・量産に向けてのデータや成果を迅速かつ実効的に共有できる態勢を構築した。
成功の背景と残された課題
アメリカでは感染のホットスポットに米海軍の病院船が投入され、日本でも感染クラスターが初発したクルーズ船に自衛隊の医療チームが差し向けられるなど、各国ともパンデミック対策の一環で軍隊の機能が動員される事例は珍しくない。しかし、イスラエルのように軍を含めた国家の治安・諜報組織がそれぞれの特性をフルに稼働させて少なくともコロナ第一波の感染爆発を抑止したケースは、中国や北朝鮮といった強権的な独裁国家を別として、いわゆる西側民主主義諸国のなかでは稀有であったと考えられる。もとよりそこには、そもそも人口規模が小さく、しかも安全保障上の深刻な問題を常時抱えた臨戦国家イスラエルだからこそ可能だったという側面もあろう。とりわけ、国民皆兵理念の下にいまだに徴兵制を布き、男女ともに数年間の現役年限を終えてもそのまま予備役に編入され、その後も数十年間訓練や実戦のために毎年一定期間を招集されるというイスラエル社会固有のエートスが作用していたと思われる。
この国にあっては、市民とは「長期休暇中の兵士」であり、兵士とは「制服を着た市民」にほかならない。彼らにとって、国防軍を含めた情報コミュニティは公共部門・民間部門のどの官庁・企業よりも信頼性が高く、信用を集める傾向が強い。したがって、政治が如何に混乱し、社会の分断が顕在化した昨今のような情勢のなかでも、モサドやシンベト、アマンが支援し連携していることが明らかな政府の指示や要請に対しては、日ごろ権威に対して決して従順とはいえない多くの市民が、ほとんど無条件に応じるという現象が見られたのであろう。
もっとも、イスラエルのこうした事例については「結果よければすべてよし」を意味するものではなく、国内外で幾つかの論争が展開されている。シンベトによるトラッキングの是非がその代表例で、敵性勢力に対する防諜技術を本来の目的以外に活用することは、一般の国民のプライバシーを侵害するとして、市民権運動団体などから行政訴訟が起こされた。感染阻止という生存権と、プライバシーを守る生活権とのいずれが優先されるべきかをめぐって、法廷で激しい論戦が繰り広げられたのである。
そこでは、そもそも誰が、いつ、誰と、どのくらいの距離と時間で接触したかを知ることが、検査件数を増やしたり、予防知識の拡散や防疫体制を強化したりすることと比べて、どこまで実効的なのかに始まって、政令や行政命令で開始されたこの措置を制御し、管理する法的正当性の有無に至るまで、数々の重要な論点が示された。「緊急事態においては緊急的制限も受忍されるべきである」との政府側の主張に対して、とりわけジャーナリストの団体から、トラッキングによって取材源や情報提供者が暴露されれば、言論の自由が失われるとの強い反論が出された。
4月下旬の最高裁判決は次のように判示している。「国家の予防的安全保障機関を公安秩序に危害を及ぼす恐れのない市民の追跡捕捉に活用するという選択は、監視対象者の個別明示的な許諾がない限り、極めて深刻な困難を惹起するものである。プライバシー保護に関する諸原則を満たす別の手法が求められるべきである」。緊急事態においてこそ、緊急的措置については民主主義的正当性を担保する適正な前提や制約が必要だという結論である。
この判決を受けて、イスラエル国会はトラッキングの運用を監視し統制する新たな法律の制定を急ぐこととなった。すでに国会は警察に対して、自己隔離を命じられた感染者や濃厚接触者のスマホなど携帯端末による所在確認の中止を命じていた。このように、トラッキングのもたらす便益とそれが引き起こすプライバシーなど基本的人権の侵害との比較考量が、イスラエルの市民社会における公共的な関心の焦点となっている。
コロナの先の世界への教訓
イスラエルに限らず、自国の国民を感染から守るという大義名分を掲げてさまざまな形の監視技術の開発や導入に血眼になる国家が増えつつある。しかしそれらの新たな技術とその適用に関しては、厳しい管理と制御の下に置かれて、期間も明示的に限定されなければならないという点が重要であろう。とりわけ、われわれがこのコロナ禍から、いつ、どのように脱することができるのかが見通せない現在にあって、安易に国家の用意する新しい監視システムを白紙委任的に受け容れていいのかについては慎重な検討が必要となる。
また、起業したばかりのベンチャー事業者から、グーグルやアップルといった巨大企業まで、民間部門もスマホのアプリケーションによるトラッキング技術の開発と売り込みに血道を上げているのが現実である。アプリケーションは個人の判断でダウンロードするので、個別明示的な許諾を与えたと解釈されることにはなろう。しかしそれら民間企業のシステムを導入することがプライバシーをより安全に守れるという保証はどこにもない。これまでの大量の情報流出事案を振り返れば明らかであろう。実際、イスラエルがトラッキングを情報コミュニティに頼ったのは、民間企業に依存するよりもプライバシー侵害のリスクを減殺できるとの判断に基づくものであった。
今回の新型コロナ禍が収束するとしても、将来にわたって新たなウイルスによる新たなパンデミックの発生は避けられない。見えない脅威によるパニックや不安心理は、いつ完成するかわからない特効薬やワクチンの開発という地道で時間のかかる正攻法に資源を投入するよりも、感染の拡大防止に即効性があるように見えるトラッキングその他の監視技術への期待を膨らませる傾向を生み出す。しかし、いったん不用意にそれら一時しのぎの監視システムが導入されれば、これを廃絶するのは至難の業となる。場合によっては、目的や目標が定められない監視のための監視社会が出現するリスクにさえつながりかねないのである。
コロナの先の世界を見据えようとするとき、われわれは新たな監視技術の利便性や有益性を正しく把握する一方で、それが自由で民主的なわれわれの社会をどのように変容させるかについても認識を共有しておかねばならない。イスラエルにおける情報コミュニティ活用の経験と、これにかかわる論争は、その意味で有意義な教訓を残すものである。
東洋英和女学院大学 学長
池田 明史
感染状況の現状と経緯
Covid-19 (新型コロナウイルス、以下コロナ) の世界的な感染爆発が続くなか、人口規模では9百万人強という小国イスラエルにおいても、6月半ば現在で感染者は1万8千人を超えている。この数は同時期の日本の感染者1万7千人強よりも多いが、イスラエルが日本の13分の1程度の人口比であることを考えれば、感染率は相当に高いように見える。しかし早期の段階からいわゆるPCR検査数1日1万件ペースを達成していたイスラエルと、OECD加盟国の中で最低水準といわれる日本の検査数とを比較すれば、単純に日本の感染率が低いという結論にはならない。検査をすればするほど、感染者が多く見つかっていくのは理の当然だからである。
他方で、コロナ感染による死者数は、日本の場合、6月半ばで9百人強と、相対的に低く抑えられている。感染者数が実態を反映していないとしても、死者数は明らかに少ない。イスラエルでも死者3百人程度と、周辺諸国や欧州と比較すれば有意に低い。周囲を海に囲まれた日本と異なり、アラブ諸国と陸で境を接しているうえヨルダン川西岸やガザといった占領支配地を抱え込んでいるイスラエルでは、防疫・検疫等の対応は格段に困難を伴う。それでも、同様の困難を抱える他の近隣諸国と比較すれば、イスラエルが感染爆発を阻止し、医療崩壊を防ぎ、都市封鎖を最小限に止めることができているのは明白である。
内戦や混乱の続くシリア、イラク、レバノンといった諸国の示す感染者数・死者数はまるで信用できないので、統計にそれなりの信憑性があると思われる近隣諸国の感染者・死者数を見てみると、表向きの数値ではトルコが17万人超 (死者5千人弱) 、エジプトが3万8千人超 (死者1300人超) 、イランが18万人弱 (死者9千人弱) などとなっている。また、イタリア、スペイン、フランス、ドイツなど感染爆発を起こして膨大な死者を出している欧州諸国のなかでは、9百万人弱というイスラエルと同程度の人口を抱えるオーストリアが相対的にコロナ対策に成功した事例と見られているが、感染者はイスラエルとほぼ同じ (1万7千人) であるのに対して、死者は7百人弱と倍以上になっている (数値はいずれも6月半ばの米国ジョンズ・ホプキンス大学コロナ集計ダッシュボードによる) 。
このように、国内で感染をいち早く制御下に置いたイスラエルだが、当初は感染爆発が最も危惧された国のひとつであった。昨春以来、一年間で三度にわたる総選挙が実施されても新政権が誕生せず、複数の疑獄事件の渦中にあって政治的正統性に乏しい現職のネタニヤフ首相が率いる暫定の事務管理内閣には強力な指導力を期待できなかったからである。実際、このパンデミックへの対策に先頭に立って指揮すべき保健相が、はやばやと夫婦で感染したことが発覚して隔離され、首相自身も罹患者との濃厚接触が疑われて自主隔離を始めるなど、3月後半から4月上旬にかけてはコロナ危機が深刻化した。とりわけ、4月前半にはユダヤ教催事上、年間で最大級の祝祭「ペサハ (過ぎ越し) 」にあたっていたため、政府は全土を段階的に封鎖 (ロックダウン) するに至った。
情報コミュニティの動員と活用
しかしながら、蓋を開けてみると、懸念されたパンデミックの蔓延は回避され、イスラエルは一転してコロナ対応の優等生として注目される存在になっている。その最大の功労者と考えられているのは、内閣や政党ではなく、保健省など通常の官僚機構でもなく、イスラエルにおいていわゆる情報コミュニティを構成する治安・諜報機関にほかならない。対外諜報活動を主務とする「モサド (対外特務機関) 」、国内防諜・公安に任ずる「シンベト (総保安局) 」、そして国内外の軍事情報の分析や戦略見積もりを担当する「アマン (国防軍情報局) 」がその中核である。モサドとシンベトは首相府の管轄下にあり、アマンは国防相・参謀総長の隷下に置かれている。これらの治安・諜報機関が対処すべき脅威は、各種のテロから大量破壊兵器、サイバー戦まで多岐にわたり、安全保障上喫緊の課題も多い。このため、政策決定過程で大きな方針が定められた後は、それぞれの機関には作戦上の柔軟な裁量が与えられるのが通例である。
今般のコロナ禍は、狭義の意味では国家の安全保障に直結するものとは解釈されなかったものの、市民の安全と生活の安寧を根底から脅かす事態であるとの認識が共有された結果、これらの治安・諜報機関が民生領域を支援する形で動員されることとなった。モサドはすでに2月には、保健省や医療関係者から、PCR検査キットや試薬、人工呼吸器や人工心肺装置、医療防護具、高機能マスクその他の必需品リストと最悪シナリオに備えた必要量の推計を入手し、直ちにその確保に向けた作戦を開始した。全世界に張り巡らせた情報収集・諜報工作ネットワークを稼働させ、3月下旬には国外から数十万件の検査キット、数百万枚の手術用マスク、数万枚のN-95高機能マスク、国内の医療関係者に十分いきわたるだけの防護具などが次々に搬入された。人工呼吸器や人工心肺装置などの高度医療機器は必要量の完成品を確保しただけでなく、その設計や製造にかかわる最先端技術についても併せてイスラエル国内に持ち込んでいる。
パンデミックが進むにつれて世界中で争奪戦が展開されたこれらの医療資源について、イスラエルは安全保障領域での情報収集や諜報工作に当たる特務機関のネットワークを駆使していち早く全世界からかき集めることに成功したのである。当然ながらそこには、先進諸国の最先端研究施設におけるコロナ研究の知見や実験結果といったソフト情報も含まれる。
国内に潜入したテロリストや敵性勢力のスパイ、あるいは政治的危険分子等を捕捉・監視する防諜機関であるシンベトは、高度に発達させた彼ら独自のトラッキング (接触確認・追跡) システムを、保健省から入手したPCR検査陽性反応者に適用した。主として通信会社より提供されたスマホや携帯電話など電子端末機器の記録を解析して、過去2週間に遡って、彼らが2メートル以内の距離において15分以上接触した人物をすべて割り出し、保健省や警察に通告したのである。これらの濃厚接触者はその事実を通告され、2週間の自己隔離を命じられる。警察は、彼らが隔離を順守しているかどうかを、これも電子端末機器によって常時監視する。高層住宅などでは、ドローンまで投入して対象者の所在を確認したと伝えられる。トラッキングによって感染経路をあぶり出し、濃厚接触者を隔離してパンデミックからの出口戦略を模索するという保健省公衆衛生局の方針は、シンベトの積極的な支援と協力がなければ成り立たなかったといえよう。
保健省など民生領域の官僚機構や医療機関と、より組織的な連携を強めて統合的なコロナ対策を展開したのが国防軍の情報部門を統括するアマンであった。保健省の指示によって立ち上げられたコロナ情報知識国家センター (CNIKC) がその拠点となり、国内の感染者数その他の罹患情報、国外での対応状況、薬剤の有効性やワクチンの開発情報など、新型コロナにかかわるありとあらゆる情報を収集し分析し、その結果を日常的に発信している。そこには、多数の医師や研究者、技術者と並んで数百名規模のアマン要員が投入され、センター長もアマンからの軍人が充てられている。情報中枢機能を担うと同時に、アマンは軍の技術開発部門と保健省や国内各大学・研究機関など民生領域とを結ぶコーディネーター的な役割を果たし、検査方法や人工呼吸器の改善・量産に向けてのデータや成果を迅速かつ実効的に共有できる態勢を構築した。
成功の背景と残された課題
アメリカでは感染のホットスポットに米海軍の病院船が投入され、日本でも感染クラスターが初発したクルーズ船に自衛隊の医療チームが差し向けられるなど、各国ともパンデミック対策の一環で軍隊の機能が動員される事例は珍しくない。しかし、イスラエルのように軍を含めた国家の治安・諜報組織がそれぞれの特性をフルに稼働させて少なくともコロナ第一波の感染爆発を抑止したケースは、中国や北朝鮮といった強権的な独裁国家を別として、いわゆる西側民主主義諸国のなかでは稀有であったと考えられる。もとよりそこには、そもそも人口規模が小さく、しかも安全保障上の深刻な問題を常時抱えた臨戦国家イスラエルだからこそ可能だったという側面もあろう。とりわけ、国民皆兵理念の下にいまだに徴兵制を布き、男女ともに数年間の現役年限を終えてもそのまま予備役に編入され、その後も数十年間訓練や実戦のために毎年一定期間を招集されるというイスラエル社会固有のエートスが作用していたと思われる。
この国にあっては、市民とは「長期休暇中の兵士」であり、兵士とは「制服を着た市民」にほかならない。彼らにとって、国防軍を含めた情報コミュニティは公共部門・民間部門のどの官庁・企業よりも信頼性が高く、信用を集める傾向が強い。したがって、政治が如何に混乱し、社会の分断が顕在化した昨今のような情勢のなかでも、モサドやシンベト、アマンが支援し連携していることが明らかな政府の指示や要請に対しては、日ごろ権威に対して決して従順とはいえない多くの市民が、ほとんど無条件に応じるという現象が見られたのであろう。
もっとも、イスラエルのこうした事例については「結果よければすべてよし」を意味するものではなく、国内外で幾つかの論争が展開されている。シンベトによるトラッキングの是非がその代表例で、敵性勢力に対する防諜技術を本来の目的以外に活用することは、一般の国民のプライバシーを侵害するとして、市民権運動団体などから行政訴訟が起こされた。感染阻止という生存権と、プライバシーを守る生活権とのいずれが優先されるべきかをめぐって、法廷で激しい論戦が繰り広げられたのである。
そこでは、そもそも誰が、いつ、誰と、どのくらいの距離と時間で接触したかを知ることが、検査件数を増やしたり、予防知識の拡散や防疫体制を強化したりすることと比べて、どこまで実効的なのかに始まって、政令や行政命令で開始されたこの措置を制御し、管理する法的正当性の有無に至るまで、数々の重要な論点が示された。「緊急事態においては緊急的制限も受忍されるべきである」との政府側の主張に対して、とりわけジャーナリストの団体から、トラッキングによって取材源や情報提供者が暴露されれば、言論の自由が失われるとの強い反論が出された。
4月下旬の最高裁判決は次のように判示している。「国家の予防的安全保障機関を公安秩序に危害を及ぼす恐れのない市民の追跡捕捉に活用するという選択は、監視対象者の個別明示的な許諾がない限り、極めて深刻な困難を惹起するものである。プライバシー保護に関する諸原則を満たす別の手法が求められるべきである」。緊急事態においてこそ、緊急的措置については民主主義的正当性を担保する適正な前提や制約が必要だという結論である。
この判決を受けて、イスラエル国会はトラッキングの運用を監視し統制する新たな法律の制定を急ぐこととなった。すでに国会は警察に対して、自己隔離を命じられた感染者や濃厚接触者のスマホなど携帯端末による所在確認の中止を命じていた。このように、トラッキングのもたらす便益とそれが引き起こすプライバシーなど基本的人権の侵害との比較考量が、イスラエルの市民社会における公共的な関心の焦点となっている。
コロナの先の世界への教訓
イスラエルに限らず、自国の国民を感染から守るという大義名分を掲げてさまざまな形の監視技術の開発や導入に血眼になる国家が増えつつある。しかしそれらの新たな技術とその適用に関しては、厳しい管理と制御の下に置かれて、期間も明示的に限定されなければならないという点が重要であろう。とりわけ、われわれがこのコロナ禍から、いつ、どのように脱することができるのかが見通せない現在にあって、安易に国家の用意する新しい監視システムを白紙委任的に受け容れていいのかについては慎重な検討が必要となる。
また、起業したばかりのベンチャー事業者から、グーグルやアップルといった巨大企業まで、民間部門もスマホのアプリケーションによるトラッキング技術の開発と売り込みに血道を上げているのが現実である。アプリケーションは個人の判断でダウンロードするので、個別明示的な許諾を与えたと解釈されることにはなろう。しかしそれら民間企業のシステムを導入することがプライバシーをより安全に守れるという保証はどこにもない。これまでの大量の情報流出事案を振り返れば明らかであろう。実際、イスラエルがトラッキングを情報コミュニティに頼ったのは、民間企業に依存するよりもプライバシー侵害のリスクを減殺できるとの判断に基づくものであった。
今回の新型コロナ禍が収束するとしても、将来にわたって新たなウイルスによる新たなパンデミックの発生は避けられない。見えない脅威によるパニックや不安心理は、いつ完成するかわからない特効薬やワクチンの開発という地道で時間のかかる正攻法に資源を投入するよりも、感染の拡大防止に即効性があるように見えるトラッキングその他の監視技術への期待を膨らませる傾向を生み出す。しかし、いったん不用意にそれら一時しのぎの監視システムが導入されれば、これを廃絶するのは至難の業となる。場合によっては、目的や目標が定められない監視のための監視社会が出現するリスクにさえつながりかねないのである。
コロナの先の世界を見据えようとするとき、われわれは新たな監視技術の利便性や有益性を正しく把握する一方で、それが自由で民主的なわれわれの社会をどのように変容させるかについても認識を共有しておかねばならない。イスラエルにおける情報コミュニティ活用の経験と、これにかかわる論争は、その意味で有意義な教訓を残すものである。